◎夢の話 第706夜 救急病院
31日の午前3時に観た夢です。
終電に間に合うべく、地下鉄の階段を下りようとしていると、後ろから人が降って来た。
俺と同じように、若い女が急いで階段を降りようとしたのだが、酔っているし、踵のやたら高いヒールを履いていたので、足を踏み外したのだ。
俺は女に押され、階段を十段ほど転げ落ち、踊り場でようやく止まった。
女も俺と一緒に落ちたが、コイツは俺の上に落ちたから無事だった。しかし、俺の方はその女のおかげでどうやら左足を骨折したようだ。それに女がまともに鳩尾の上に乗ったので、しばらくの間、俺は唸っていた。
すぐに救急車が呼ばれ、俺はそいつに乗せられた。
ところが、その救急車がなかなか発進しない。
無線のやり取りが聞こえたが、どうやら運んで行く病院の宛てが見つからないらしい。
「年末で急患がやたら多く、どこも受け入れられないと言っている」
「じゃあ、隣の管轄はどうだ。S西部ならそんなに遠くない」
「そっちはもっと混雑している。高速で多重事故があったからな。あれ、ちょっとまて。相模野北ヶ原病院てのがある。あんまり聞いたことが無いが、最近の登録かもしれんな。今連絡してみる」
少しの沈黙の後、スピーカーが再び口を開く。
「受け入れるってさ。そこから8キロ先でそんなに遠くない」
「了解しました」
すぐに救急車が動き出す。
十数分くらいで、救急車は病院の前に着いた。
運転役の救急隊員が俺を看ていた隊員に話し掛ける。
「こんな病院あったっけ?」
「知らんね。俺も初めてだ。ま、管轄が隣だからね。そういうこともあるだろ」
深夜だからということもあるが、玄関の前は真っ暗だった。
施設自体はソコソコの大きさだが、あまり人の出入りがなさそうな印象だった。
「随分古いつくりだな。何時からあるんだろ」
「ま、どうでもいいよ。とりあえず、この人を看て貰おう」
後ろの扉が開くと、外には看護師が立っていた。
白いナース服が目に入る。今は男女共に同じ制服を着ていることが多いのだが、ここでは昔通りのナース服を着させているらしい。
この頃には、腹の痛みも治まっていたから、俺は呑気に看護師を観察していた。
この夜は本当に忙しかったのか、救急隊員は俺を看護師に渡すと、病院には立ち寄らず、救急車に乗り込んだ。
車のドアが閉まる直前に、隊員同士が話すのが聞こえた。
「ああ。北ヶ原病院てのは、昔、陸軍の研究施設があったところじゃないか」
「そうなのか」
「病院も付属していたから、それが基になっているんだろ」
「ふうん」
バタン、とドアが閉まる。
看護師二人がキャリアーを押し、入り口から30辰曚秒罎貌?辰燭箸海蹐如俺は病室に入れられた。部屋の前には「救急処置室」という看板が掛けてある。
中央には寝台があり、俺はキャリアーから寝台に移し替えられた。
「すぐに先生が来ますからね。そのままお待ち下さい」
四十台くらいの看護師が言う。すっかり昔の姿をした看護師で、頭にナースキャップを被っている。
俺はその看護師に自分の状態を伝えた。
「腹を抱えて唸っていたからこうやって運ばれたんだろうけど、今、痛いのは脚だけだから、大丈夫だよ」
視界の端にもう一人の看護師が入る。こっちは二十四五の小奇麗な娘だった。
「ではすぐに参りますからね」
そう言うと、看護師二人は部屋から出て行った。
しばらく待ったが、医師が来る気配が無い。
俺はそのまま横になっていたが、つい眠ってしまった。
眠っていたのはほんの四五分だろうが、人の気配で眼が覚めた。
「うわあ」
驚くのも無理は無い。診察台に横たわる俺の顔の近くに、老女が顔を寄せていたのだ。
テレビでよく見る「※パホテルの社長」みたいな顔つきだったから、思わず声を上げてしまった。間近で見るのには、あまり向かない形相だ。
老女が呟く。
「わたしが担当です。これからお注射をしますからね」
「嘘だろ。お前は看護師じゃないだろうに。おおい。誰か来てくれえ!!」
その俺の声を聞きつけて、看護師がやって来た。
「あらあら、小林さん。ここに入っちゃ駄目ですよ」
どうやら、この老女はここの入院患者で、少し認知症気味らしい。
日頃から病院のあちこちに入り込んでいるということだ。
おそらく自分が看護師でいるつもりなのだろう。
ここに医師がやって来た。
「お待たせしました」
医師は何故か手術着を着ていた。
それどころか、右手には金槌を握っている。
その右手がぶるぶると震え、金槌がベッドの脇に当たって「カチンカチン」と音を立てた。
看護師が医師に状況を伝える。
「この方は階段から落ちて、足を痛めているようです」
マスクの中からくぐもった声が響く。
「ふうん。そうなの」
医師は急に興味が失せたように、視線を落とす。
右手は依然としてぶるぶると震え、カチンカチカチと金属の枠が鳴る。
俺は心中で舌打ちをした。
(おいおい。ここは一体、どんな病院だよ。今どき、こんなおかしな医師が診察しているとはな。)
以前、T市に住んでいる時に、夜中に腹が痛くなり、「何時でもすぐに見てもらえるから」という理由で、E病院に行ったことがある。
すると、診察に出て来た医師は、薄汚れたスニーカーを履いた小汚いオヤジで、両手がぶるぶると震えていた。
その医師は俺をろくに診もせず強い抗生物質を処方して寄こした。
あとで聞いたら、「強い薬を簡単に出す病院」として有名なところだった。
「赤ちゃんを十人は殺した」という噂もある。
その時の医師の表情に、目の前のコイツもよく似ている。
(医師に限らず、専門職には、結構おかしなヤツがいるからな。)
大体、その金槌だ。何に使ったんだか、さっぱり分からない。医療器具ではなく、ごく普通の大工が使う金槌だった。
医師は金槌をポケットに差すと、俺の右足を検めた。
「なあんだ。これは折れてはいないね。酷く捻挫しただけだ。ギプスの必要も無い。湿布して、あまり使わないようにしていれば、1週間で治る」
医師は独り言のように呟くと、看護師に顎をしゃくり、ぷいと出て行った。
ここで年嵩の看護師が若い方に指示をする。
「じゃあ、私が湿布をして包帯を巻くから、あなたは注射の仕度をして」
「はい」と若い方が背中を向ける。
え。注射。一体何の注射だよ。俺は急に不安になった。
「あの。すいませんが、何を注射するんですか」
すると、年嵩の看護師は、あきれたような表情で俺に答えた。
「痛み止めですよ。そのままじゃあ、足が痛くて眠れないでしょ。もう家に帰れる時間じゃないから、今晩はこの病院に泊るのよ。夜中にうんうん唸られてもね」
「そうですか。分かりました」
でも、おそらく、ここから俺の家までは20キロくらいだから、タクシーで帰ろうと思えば帰れないことはない。
何だか奇妙な心持ちだが、せっかくだから、泊めてもらおうか。
若い方の看護師はそれなりの美人だから、この子が夜番なら、いずれ話をする機会も出来そうだ。
だが、そんな助平心も、すぐさま微塵に打ち砕かれた。
若い看護師が戻って来たのだが、両手に点滴の器具を抱えていた。
年嵩がそれを見咎める。
「ちょっと、あなた。何を持って来てるの」
「え。はい」
若いのが抱えて来た器具には、赤い血のような液体が入っていたし、それも使い掛けだった。
「痛み止めの注射をするだけなのよ。あなた。ぼおっとしてるの?」
「すいません」
若い方がまた背中を向ける。
ドアが開くと、廊下の端のほうから「ぎゃあああ」と長く大きい叫び声が響いた。
「ああ。あれは北上さんだわ。また始まったのね」
年嵩の看護師が包帯を巻く手を止める。
「ぎゃああ。ひと殺し」
二度目の悲鳴で、看護師は俺の処置を止めてしまった。
「ちょっと患者さんの様子を見て来ますね。このまま待っていてください」
俺の返事を待たず、看護師が走り出る。
すると入れ替わりに、若い方がやって来る。
手には針の長い注射器を持っていた。
針先が15センチはありそうな特殊なヤツだ。
こいつが普通の注射器ではないことは一目で分かる。
「ではお注射をしますからね」
そう言って、看護師は俺の腕に注射をしようとする。
それを間近で見ていたが、医師と同じように、この看護師の手もぶるぶると震えていた。
「おいおい。大丈夫だろうね。もしかして、あまり寝ていないんじゃないのか」
「いえ。大丈夫です」
しかし、針の先は5センチ位の幅で左右に振れており、腕に刺すことが出来ない。
(何だか。さっきの医師とまるで同じだな。)
「疲れているのかい。それじゃあ、打てんだろうから、少し休んで落ち着いてからにすればいいよ。変な風に刺されちゃ、俺も堪らないし」
「はい。分かりました」
看護師は素直に頷くと、部屋の隅に行き、椅子に腰掛けた。
ここで俺は医師とこの看護師が同じように震える理由を考えた。
「あまりに、夜昼の勤務がキツいから、皆が疲れ切っている、とか」
看護師の補充がつかず、若手の医師や看護師に皺寄せが行くケースだ。
「あるいは、さっきまで宿直室に二人で居た、とか。シャブを打ち合って、これから激しいエッチをしようとしていた、なんてな。注射のやり過ぎで、あちこちおかしくなっている」
病院によっては、医師や看護師が入り乱れて、誰と誰が出来ているのか分からないようなところもある。ま、それは普通の会社でも同じで、会社ごとに性文化とか性風土みたいなものがあり、課全体が乱交状態のところがある。
「そういうのは製造業みたいな会社には時々あるんだけどなあ」
ここに年嵩の看護師が戻って来る。
部屋に入ると、年嵩は若い看護師を叱り付けた。
「あなた。何座ってるの。注射は終わったの?」
「すいません。まだです」
「仕方ないわね。じゃあ、わたしがやるわ」
年嵩が注射器を持って俺に近寄る。
その注射器がやっぱりぶるぶる震えていた。
(おいおい。こいつもか。本当に乱交だったのかよ。)
俺は慌てて年嵩を押し留めた。
「いやいや、シャブ、じゃねえや。痛み止めは要りません。しなくて結構です」
「痛くないの?」
「薬でいいです。ありますよね。ロキソニンなら」
「そうですか」
看護師は少し残念そうな表情で、背中を向けた。
俺はロキソニンを五日分出して貰った。
翌日から三日続けて連休で、薬局が休みだったから、ここでしか薬が貰えない。
その薬袋から2錠を出して飲んだが、病室に移ってから、また2錠飲んだ。
足の痛みがぶり返していたし、この日は色々あったから、すぐにでも眠りたかったのだ。
5分くらい経つと、薬が効いてきたのか、頭がぼおっとして来た。
「良かった。ようやくこれで休める」
手足が重くなり、動かせなくなった。
眠りに就こうとする俺の視界の端に、病室の扉が見えている。
その扉が「キー」と音を立てて開いた。
若い方の看護師に見に来てくれたのか。そう思って、視線を向けると、扉の陰から現われたのは、あの「※パホテル」の社長だった。
老女は笑みを浮かべながら、病室の中に入って来た。
「これからお注射をしますからね」
老女は血で汚れた使い古しの点滴道具を、両手一杯に抱えていた。
「ああ。ヤバい。認知症ババアにあんなものを刺されたら、おそらく感染症かなんかでやられちまう。それどころか空気でも入れられたら、今晩のうちにアウトだ」
俺は呼び出しボタンに手を伸ばそうとするが、腕がまったく動かない。
やはり薬を飲みすぎたのだ。
「ああ。看護師さあん。看護師さあん」
どっちでもいいぞ。年嵩でも若い方でもいいから、早く来てくれ。
すると、看護師を呼ぶ俺の声が聞こえたのか、ベッド脇に立つ老女が嬉しそうに笑った。
「はいはい。すぐにやります」
その言葉を聞きながら、俺は深い眠りに落ちていった。
ここで覚醒。