◎「背盛字銭の新研究」を読む (その10)終了 暴々鶏
この別記◆の二番目で、この報告は一括りとなる。
ここでのテーマは、主に「何故に多様な変化が生まれたのか」ということに関する見解になっている。
◆別記 その2 十五号504頁(20)~505頁(21)
以上諸氏の考察中(一)(二)の書体の相違を鋳浚の結果とするに対し、更に卑見を開陳して置きたい。水原・新渡戸両氏の高見の如くはこの両種は正に原母を等ふするものであり、従って殆ど同一種のものとなるから、その考証は根底から覆ることになるが、然しこれについては次の疑問が生じてくる。即ち長期に亘り鋳造せるものほど鋳浚い回数もその量も多かるべき筈であるが、盛字異書の如く極めて短期の鋳造と思わるるものは決して鋳浚回数が多かったとは想像されぬ。従って回を重ぬるたびに小異を生じ、遂には似もつかぬに変化したとは考えられぬ。まず背文の盛字につきて見るも(一)より(二)に変化せしむるには波文と盛字第1画を隔絶せしむべく頗る肥大なる盛字の陽鋳を必要とすべく、その反対側の波文に接する点においてもまた同様である。その銭文に至りては四字とも尽く相違点を発見するが、先ず主なる者を挙ぐると、永字の相違は説明の必要も無かるべく、寛字にありては(一)のウ冠とサ字の示す縦の間隔は左右対称となっているが、(二)にありては左方甚だしく狭まっている。この異動も鋳浚の際で着うることなりや否やを考える必要はある。寶字も諸所に小異を見せているが、元雄も著しきは貝の部で(一)の貝に対し(二)は貝(編者注:後ろ足が長い)で最下部に著しき相違を発見する。(一)のハを(二)の形態に移行せしむるにはこれまた盛字の場合と等しく、予め字形を判読しうる程度に肥大ならしめ置かざれば、成し能わざる所ではあるまいか。要するに等しく盛字異書なるを以って無理に原母を等ふするものと解するよりは先ず甚だしく近似せる類銭に縁を求めるべきで、この意味に於いて余の考証は寧ろ妥当性に富めるものと信ずる。
なお新渡戸氏談の如く幕命により新たに背盛字原母を刻し幕府の了解を得たるものとせば相応の日数を要したことは勿論だから、この長期間大迫に於いて鋳造を停止していたが、従来通り稼行していたかが問題となる。余は前文に於いて述べた通り大迫銭の大部は盛字銭ならざるより見て、幕命に接しても鋳造は続行されたものと思う。従って波文に盛字を嵌め込んだものが出現し得るわけで、ただ些細のことではあるが勝手な行動は慎むべきであるから新母を刻せしめて幕府に閲覧を乞うたものと考える。
金質に対する意見の相違は解決容易である。ただ全面きれいに研磨された様な銭面に薬品の滴下を忌んでいるに過ぎない。万一鉄なりとせば藩鋳銭中未だかって見ざる美銭で、これは白銅の種銭と見らるる程度なる点において想像はつくであろう。また果たして鉄の種銭あったとすれば極めて珍奇なる発見で、従来の種銭に対する考定に更に一考を煩わさねばならぬことになる。
注記)「等ふ」は「ひとしう」か。
◆暴々鶏 解説
その1)(一)(二)の書体の相違を鋳浚の結果とする
ここで対象とするのは、(一)と(二)の間の書体の相違だ。同じ出発点から生まれたものにしては、変化が著しい。これは何か、どこに起因するのかということがテーマになっている。
繰り返しになるが、ここでは(三)以降の品に関しては眼中に無い。総てが「後出来の品」ということで決着している。(一)と(二)、そして(三以降)は書体や製作が異なっているから、とりわけ(三)以降については、もしいずれかの拓本と型が一致すると、その時点で「後出来」と見なされる。
これまで(一)(二)に繋がる品が見付かったことはなく、古拓で「母銭」「鋳浚い母」と掲示されて来た品々についても、小田嶋は蔵主に敬意を示し、言葉を選んでいるが、「作り物」だと見ていた。
実際、銀製の彫母など、「如何にも月舘八百八が作りそうな代物」で、あざとい。その一方で、銭座ではそんなことは行わぬので、そのことをよく知らぬ者が作ったような品になる(例えば、勧業場の職員とか)。
筋金入りの収集家であれば、「真実を知りたい」と思う方が重要だから、何故そういう見解になるのかという合理的な理由があれば、自己の蔵品を「後出来」だと指摘されても、動じることはない。
但し書きが「本物」から「由来のある参考品」に替わるだけだ。
印象論に終始することほど、時間を無駄にすることはない。
その2)長期に亘り鋳造せるものほど鋳浚い回数もその量も多かるべき筈であるが、盛字異書の如く極めて短期の鋳造と思わるるものは決して鋳浚回数が多かったとは想像されぬ。従って回を重ぬるたびに小異を生じ、遂には似もつかぬに変化したとは考えられぬ。
(一)から(二)については、短期間で企図され作られたとするには変化が多過ぎる。
その3)」まず背文の盛字につきて見るも(一)より(二)に変化せしむるには波文と盛字第1画を隔絶せしむべく頗る肥大なる盛字の陽鋳を必要とすべく、その反対側の波文に接する点においてもまた同様である。
(一)(二)各々の「盛」字ひとつとっても、同じ起源から生まれたにしては、相違が大きい。
以下は、どのように違っているかに関する言及になる。
その4)その銭文に至りては四字とも尽く相違点を発見するが、先ず主なる者を挙ぐると、永字の相違は説明の必要も無かるべく、寛字にありては(一)のウ冠とサ字の示す縦の間隔は左右対称となっているが、(二)にありては左方甚だしく狭まっている。この異動も鋳浚の際で着うることなりや否やを考える必要はある。寶字も諸所に小異を見せているが、元雄も著しきは貝の部で(一)の貝に対し(二)は貝(編者注:後ろ足が長い)で最下部に著しき相違を発見する。(一)のハを(二)の形態に移行せしむるにはこれまた盛字の場合と等しく、予め字形を判読しうる程度に肥大ならしめ置かざれば、成し能わざる所ではあるまいか。
相違を逐一指摘した後で、結論的見解は次の件となる。
その5)等しく盛字異書なるを以って無理に原母を等ふするものと解するよりは先ず甚だしく近似せる類銭に縁を求めるべき
「盛」字の点が下の位置にあることをもって、「同一種」と見なすのではなく、非常によく似た関連種と見なすべきだ。「先に(一)を作った原母があり、その同一の原母から生まれ、変化した結果が(二)になった」という考え方を改めるべきだ、というのが小田嶋の指摘である。
小田嶋の頭の中には、仙台藩が石巻で行ったようは「拓本起こし」の手法が想定されていなかったようだ。当四の「削頭千」という銭種は、深川俯永の面文と配置に於いて95%以上が一致する。
その一方で、はっきりした書体の改変の後も確認できる。これは、「拓本を金属板に貼り付け、これを下敷きにして、少し大き目に彫金を施して行く」という原母製造手法による。これ以外に同一性と相違性を説明する工程は無い。
(二)はどうやって作られたか。これは(一)を写し取る時に鋳浚いなどの修正を加えたのではなく、(一)の拓影を基に、別途作り直したことによる。
最初に想定されるのは、やはりこの「拓本起こし」の手法だ。
「拓本起こし」は、銭譜を基に、かつての型を復活させる時などに用いられる。
難点は、拓影に現れる部分しか情報がなく、山谷の詳細が分からないから、「ぺったりと平坦な品」になりやすいという点だ。これにより完成品が「一枚板」のように見え、実際、何万枚の型取りには耐えられぬ品になる。そこではかたちは似ているが、到底母銭としては使えぬ代物になってしまう。
(三)以降のこの銭種が、やたら平坦な印象を与えるのは、専らこの作り方に拠る。
ところが、「拓本起こし」なら、もっと字の配置が禁じ知る筈なのだが、ほとんど別書体に近くなっている。要は(二)は(一)の系統に属する品ではなく、似ているのは「盛」字の点の位置だけになる。
そうなると、両者はそもそも起源を異にするということだ。(この項暴々鶏)
その6)幕命により新たに背盛字原母を刻し幕府の了解を得たるものとせば相応の日数を要したこと
その7)この長期間大迫に於いて鋳造を停止していたが、従来通り稼行していたかが問題となる。余は前文に於いて述べた通り大迫銭の大部は盛字銭ならざるより見て、幕命に接しても鋳造は続行された
大迫では、既に稼働を初めていたが、当初は背に「盛」字のない銭種だった。これはおそらく水戸小梅藩邸より持ち帰った「仰寶」の系統の品のことを指す。
幕府より「盛字を入れること」という指示を受けたが、この製造は短期間では出来なかった筈だ。
おそらく鋳銭自体は、背盛銭の完成以前にも継続されていた。
その8)万一鉄なりとせば藩鋳銭中未だかって見ざる美銭で、これは白銅の種銭と見らるる
その9)鉄の種銭あったとすれば極めて珍奇なる発見で、従来の種銭に対する考定に更に一考を煩わさねばならぬ
現代の収集家が奇異に思うのは、「素材が白銅か鉄か」の議論が行なわれていることだろう。
だがその疑問は「玉鋼の鉄銭を見たことがない」という経験の差だ。当時の収集家は、大迫や浄法寺の銭の中に「秀麗な鉄銭が存在している」ことを承知していたから、逆に悩まされることになる。
磁性は白銅にも配合により生じるので頼りにはならない。薬品を使えば地金の判定は簡単だが、美銭を損ねることにもなるから、しのびない。このため、こういう議論になったのだ。我々の浅い知見による考えより、はるかに先を行っている。
「玉鋼の鉄銭」の現物を見る機会は、青寶楼の没後に一度だけチャンスがあった。
もう何十年も前の話だが、ある時、都内Oコインの店頭に行くと、小母さんが「さっきSさんが来て、鏡のような鉄銭を持って来た」と話した。ほんの二十分前の話だが、「鉄銭なのに十万円で関西に納める」らしい。
この時には、私は「玉鋼の鉄銭(見本銭)」の所在を知っており、かつこの南部史談会での「素材は何か」の議論も承知していたから、心底より絶望した。
「へ。十万円だと。その品は二十万でも全然足りぬ希少品だよ」
多い少ないの話ではなく、まさに「歴史の証拠品」で、彫り母に匹敵する価値がある。
さて、小田嶋古湶による「背盛字銭の新研究」を読み解く作業は、これまでになる。
小田嶋は、その基本的スタンスが研究者なので、所感ではなく「確からしさ」に重きを置く。
その一方で、先達である新渡戸仙岳や、古泉界の幾人かに敬意を示しつつ、言葉を選んで、疑問を提示している。
簡単に言うと、小田嶋の考えていた要点は、次の通り。
1)幕府の命令に従ったという流れの中では(一)の品は、確からしい一品である。
ただし現在ではこの現品はどこにも見当たらない。
2)検討に値する品は(二)だが、型の成り立ちが(一)とは異なる。
同時に作られた同系統の品でも別種でもない。
(二)についてには、新渡戸仙岳の言う「栗林」説が検討に値する。栗林では、背盛、仰寶の小型銭が、領内で初めて作られた。これは「材料節約」という動機と、「既に銅鉄相場が開いており。鉄銭は当四では通用しなくなっていた」ことを背景にする。
なお、これは起源論であり、現品に関連するものではない。話が別だ。
以下は暴々鶏個人の見解になる。
3)小田嶋のリポートが作成された時点で、(三)以下は総て否定されている。また、東京の収集家の古拓にある彫母、原母、鋳浚い母は総て(二)より後に作られたものである。要するに総て後鋳品と言うこと。
総ての品を確認したわけではないが、現存品は(三)以降の型に一致している。一致してはならぬ品に一致しており、ことごとく後鋳品であると言える。
(ここで「残念なお知らせ」は「ご愁傷様」と言う言葉に替わる。)
4)(二)を含め、とりわけ(三)以降は、殆どの品に宮福蔵が関与している。一般的に言えば、宮福蔵が「作った」「作らせた」という解釈で良いと思われる。
5)勧業場では、かつての銭座職人を招聘して見本を作らせたようで、銭座の出来と寸分たがわぬ盛岡銅山銭や小字母銭などが残っている。銭座の職人が作ったので、銭座のものと見まごう品が存在するのは当たり前だ。製作の出来不出来が真贋を語ることはない。「この銭種だから」で説明がつく。
暴々鶏としては、「宮福蔵の関与した(二)以降の現存品は総て創作銭」という見解になる。
明治三十年の勧業場実験から、昭和十年に史談会で議論が交わされるまでは、三十年の間隙がある。
その間、「下点盛」の殆どの品は宮福蔵が収集家や骨董業者に渡した。
こういうことは、私個人が考えたことではなく、「背盛字銭の新研究」を精読すれば、「既にそこに書いてある」ことだ。
さて、収集家のあなたに質問だ。
「あなたは『背盛字銭の新研究』を読んだのか?」
私は「読んだことはない」と思う。
さて、『岩手に於ける鋳銭』でも同じことが起きる。
収集界での議論が堂々巡りなのは、誰一人「原典にあたる」ことをしないからということ。
逐一を読んで行くと、「収集界」が「愚か者の集まり」だと分かってしまう。
ここは失礼を顧みず、あえて記す。何故なら「原典を読んでもいない」であれこれ言うからだ。
同著を詳細に精読すると、南部貨幣の「常識」が総て覆される。
これが前に『南部銭譜』を作れなかった理由になる。要は、多くの品が参考品になってしまうということ。
さて、あなたは『岩手に於ける鋳銭』を読んだことがあるのか?
「精読」「解釈」と言う意味では、私はこれまで「一人もいない」と思う。収集家は専ら型分類だけ好んでやっている。それは「目の前のことだけで話が済むから」ということ。
なお、平成二十年当時は「収集家間に差し障りが生じるだろう」と思い、雑銭の会内部の検討会だけに内容を留めて来た。だが、既に収集家ではなくなり、他者を憚る必要は無くなった。研究者として眺めるなら、答えはひとつである。今後は考えられ得ることをそのまま言及する。要はほぼ「残念なお知らせ」ということ。だが、現品を見て「何だかおかしい」と感じて来た者は納得すると思う。何となくそう思う理由は「ルールに外れた側面がある」ということだ。
「これでは何百万枚の鉄銭を作る仕様になっていない」という直感は正しい。何故なら、鋳銭技術の裏付けがあるからた。
だが、当たり前だが、所感の範囲ではダメで、きちんと証拠を上げて論じる必要がある。
それには、「まずは原典をあたれ」ということを必ず守ることだ。
注記)一発書き殴りで、推敲や校正をしない。所感として書いているので、不首尾はあると思う。もちろん、根拠については、極力、証拠を上げて書いている。