日刊早坂ノボル新聞

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◎「背盛字銭の新研究」を読む (その9)  暴々鶏

◎「背盛字銭の新研究」を読む (その9)  暴々鶏

 本論は前項で終わっており、これから先は「別記」に該当する部分となる。

 これまでの部分は原則論に関する内容であったが、以下は具体的な銭容に関わる疑問を提示するものとなっている。要するに各論ということ。

 

◆別記 その1             十五号504頁(19)

 新発見の(一)を見られた水原氏は銭質を鉄とし、かつ両面に鑢目の痕があるとて偽鋳銭とされたが、後これを撤回された。而して銭種については亀井戸系統にあらずして、鋳浚の結果書体の相違を見るに至りしものと断定され、而して銀刻母は田中氏の銭幣館に愛蔵されていると語られた。新渡戸氏は銭質を白銅とし、旧藩時代鋳銭として一点疑い無きを断言されたが、銭種については水原氏と同様の見解であり、かつ背盛字銭原母(正字銭)出来後改めて幕府の許可を得たる旨付加された。小笠原氏は銭種を余の考察の如く亀井戸系統とされた。而して俯永種銭より直に鋳造せしものに比し小異あるを指摘された。銭質については県工業試験場の砂子沢氏はこれを白銅とし、小森・宮両氏はこれを鉄とされた。なお砂子沢氏は銭種を(一)(二)全く別系統のものとし微細の点まで比較された。

 

◆暴々鶏 解説  

 「盛字異書(降点盛字・下点盛)」正品と見なされるのは(一)と(二)であるが、これらの特徴について、共通理解を求めようとした部分である。

 

その1)水原氏は銭質を鉄とし、かつ両面に鑢目の痕があるとて偽鋳銭とされたが、後これを撤回された。而して銭種については亀井戸系統にあらずして、鋳浚の結果書体の相違を見るに至りしものと断定(「水原正太郎の説」)

 水原正太郎の説では、(一)について、地金を鉄製と見なし、両面に鑢目があるとして「偽造銭」としたが、後に撤回。

 亀井戸俯永そのまま写したものではなく、鋳浚い変化が生じている、とした。

 

その2)新渡戸氏は銭質を白銅とし、旧藩時代鋳銭として一点疑きを断言

背盛字銭原母(正字銭)出来後改めて幕府の許可を得たる(「新渡戸仙岳の説」)

 新渡戸仙岳の説では、(一)の地金を白銅製と見なし、幕末のものと断定した。

 

 今に生きる収集家が不思議に思う点のひとつが、この記述で、「果たして、鉄と銅の地金の違いを見間違うことがあるのかどうか」ということだ。

 これは、簡単に言えば「見ているものが違う」ということで、銭座を開くごく初期においては、おそらく見本銭として作成したのだろうが、「玉鋼製」の背盛銭が作られており、これは原物も残っていた。

 これまで幾度か言及して来たが、現品は浄法寺で発見され、地元から小川青寶楼の蔵となり、その後関西方面の収集家に写ったようだ。玉鋼なので、表面は鏡のように美麗である。

 こういう品は、収集家ではなく地元の博物館に返すべき品だと思う。収集家の所蔵品としては単に「珍しい」だけで、意味を調べたり考えたりなどはなされない。

 そもそも、こういう議論の質がどういうことかについても考えが及ぶことはない。

 

 新渡戸の説で面白い点は、「背盛正字が完成した後で、改めて幕府に申請しようとした」銭であると言う見解だ。これは前回の通り栗林製ということで、栗林の初期に「材料節約のため母銭の周縁を削った」事実と符合する。この銭種の小ささは、意図的なものだったと解釈され、状況には合致する。

 (これはもちろん、(一)の出自に関することで、現存品に対してのものではない。総てを実験したわけではないが、現存品は概ね三以降の写しである。)

 

その3)小笠原氏は銭種を余の考察の如く亀井戸系統とされた。而して俯永種銭より直に鋳造せしものに比し小異あるを指摘(「小笠原白雲居の説」)

 小笠原白雲居は、(一)の銭型を亀井戸俯永より派生したものと見なした。

 ただし、そのままではなく変化が生じている。

 この点については、別記その2)で諸説を取り纏めている。

 

その4)県工業試験場の砂子沢氏はこれを白銅とし、小森・宮両氏はこれを鉄とされた。なお砂子沢氏は銭種を(一)(二)全く別系統のもの

 地金については、「餅は餅屋」で、勧業場の職員である四氏に見解を訊いてみた。

 砂子沢氏は白銅、小森、宮氏は鉄と見た。前述の通り、手越は普通の鉄とはまるで違っていた。

 なお、明治三十年の鋳造実験の際に在職していたのは、砂子沢、宮福蔵の二名である。

 砂子沢は(一)と(二)とは成り立ちが別だと見た。

 面文を似せているが、これは見ての通り、(一)は亀井戸俯永を台にしたもの、(二)は別途、それに似せて作られたものということである。

 また、これまでに指摘して来たとおり、(二)以後はほぼ宮福蔵旧蔵に端を発している。

 

 以下は状況証拠を積み上げる過程で分かったことだ。

勧業場(岩手県立工業試験場)が鋳造技術の開発事業を行ったのが、明治三十年で、これはこの一年のみのことだった。その際、技術研究のため、鉄瓶職人やかつての銭座の職人を招聘し、各種鋳造技術の研究を行った。この際に、かつての方法で製品を再現し、工程を再確認した。

 明治三十年は、新渡戸仙岳が岩手県の教育長に任じられていたが、この任も一年だけで、出納係の横領事件の代表責任を取り辞任した。

 この後、新渡戸は女学校長になるため、各地を回り事情聴取する時間的余裕はない。

 となると、明治三十年頃に書かれた、鋳銭に関する聴取記録は、おそらく勧業場を通じてのものだったと見なされる。(原稿の中には、セキレイに「岩手県」のネームが入っているものがあり、この場合は執筆年を特定出来る。)

 県のトップ官僚が、在職時に「銭座職人」と繋がりを持てたのは、勧業場以外の接点はない。

 実験を見学に行った折に、そこで銭座職人と知己になり、話を聞いたのだろう。

 総ての筋がそこで繋がる。

 

 勧業場の研究は、今も品物が沢山残っていることで容易に推察出来る。

 鉄瓶や貨幣などのうち、従来の手法で作られたものがあり、次に材質や鋳造法や素材を変えた品がある一方で、素人の手になるような粗末な出来のものもある。

 勧業場では、技術研究の傍ら、鉄瓶などの展示会の開催と販売も行っていたから、1)指導員(本来の職人)自身が行った製品、2)新規に開発しようとした製品、3)技術指導を受けた者の手になる製品など三層の製品が生じることになる。これは実際の存在状況に合致しており、鉄瓶には美術品級の品がある一方で、実用品レベルの品もあるようだ。

 

 さて、盛字異書(降点盛字・下点盛)の現存品はごく僅かで、戦後に正品は世に出たことがない。

 それなのに、書体変化が見られるのは何故なのか。

 嫌と言うほど記すが、小田嶋がこの銭種の研究対象としているのは(一)(二)である。(三)以降の品や「東京方面の品」は視野に入っていない。これに「例外はない」ので念のため。これが残念なお知らせの二つ目になる。銅も鉄もなく後鋳品ということ。

 

 次回は「変化」に関する疑問への最終見解になる。(続く)

注記)総て、所感として書いている。一発殴り書きなので、不首尾も多いと思う。