日刊早坂ノボル新聞

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◎濶縁大黒・恵比寿 ─勧業場の鋳銭─

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南部 濶縁大黒・恵比寿 

◎濶縁大黒・恵比寿 ─勧業場の鋳銭─

 濶縁大黒・恵比寿は「南部絵銭」として知られている。

 通常、「南部絵銭」と表記する場合は、「藩政時代の」という含意があることが前提だ。

 しかし、地元収集家はこの銭種が「勧業場で作られた」ことを承知しており、幾つかの銭譜にもその記載がある。

 勧業場と言えば、明治の公的機関だから、正確には「南部絵銭」ではない。

 とはいえ、もちろん、収集家向けに作られた参考銭ではないことも。予め記して置く。

 

 勧業場で「盛岡銅山銭や天保通寶、絵銭等が作られた」ことは、収集界ではよく知られているが、その活動内容の方は未だに浸透していない。

 勧業場での鋳銭が果たして何だったかということについては、「当の勧業場に行って調べる」のが分かりよい。勧業場はその後、県立工業試験場となり、現在は県工業技術センターに代わっているが、組織自体は今も存在している。

それなら、そのセンターに照会すれば分かりよい訳であるが、収集界では一人もそれを試みた者はいない。

 収集家は、手の上の銭と、誰か他の収集家が書いた物しか検めない傾向がある。

 そこで、実際に勧業場について調べてみると、そこで起きていた出来事はすこぶる単純である。

 

 既に記述済みであるから、勧業場の経緯については簡略化して記す。 

・明治初頭(6年)に殖産興業政策の一環として、岩手県立の公共施設として誕生した。

・紡績・機織など地場産業の製品を外に向けて紹介しつつ、産業技術の発展に寄与するために、職人の育成事業を行った。

・南部鉄瓶については、地元作家の作品を博覧会や物産陳列所を通じて販売した。

 

 南部貨幣との接点は、明治30年のことになる。

 この年に、勧業場では「南部鉄瓶の鋳造技術を、教育訓練科目として取り入れられないか」ということが検討された。このため、担当職員を配置して、鋳造技術の調査と研究に当たらせた。

 この時に研究されたのが、南部鉄瓶と鋳造貨幣の鋳造技術である。実際に「勧業場」という銘を打った鉄瓶が残されており、書面の上だけの話ではない。

 なお、勧業場内で鋳造実験が行われたのは、この年だけで、翌年からは機織工の訓練に重点が定まって行く。このため、「勧業場において鉄瓶や鋳造貨幣が作られたのは、この年だけ」と特定することが出来る。

 鋳造貨幣については、これはあくまで口碑であるが、盛岡銅山銭二期三期銭、天保通寶当百銭の母銭、絵銭類が作られたと伝えられており、この濶縁大黒・恵比寿もその内の一銭種である。

 

 当該銭種の判別は、割と容易い。

 技術的に観て、銭座で採用した方法ではなく、1枚1枚を丁寧に仕上げてある。

 銭座では短期間のうちに何十万枚を作るという前提に立って鋳造工程を組むが、勧業場の鋳銭は工法そのものの研究にあったから、基本的に南部鉄瓶の工法に拠っている。

 要するに、ひと差ひと差を丁寧に仕上げるわけである。

 鋳銭では、母銭で型を作り、銅鉄を流し込むと、それを崩して製品を取り出すが、再利用しやすいように砂型を使用した。

 勧業場では、まず母銭を作る技術を研究したが、砂型を時間をかけて焼き固め、カチカチの状態にして(陶笵)、溶金を流し込んだ。これで表面にブツブツの少ない、滑らかな製品が出来る。

 製品自体は非常に美しいが、しかし、型は一度または数度しか使えず、砂を再利用するのに手間が掛かる。陶片と化した砂を砕いて砂に戻す必要があるからである。

 

 明治30年は、岩手県教育長に新渡戸仙岳が就任した年で、恐らく新渡戸は勧業場に視察に赴いた。鉄瓶職人の中には、当然、鉄山で働いた者も混じっているから、当事者としての話が聞けた。著作の中に、「陶笵」など鉄瓶製法の用語が多く含まれるのはこのためである。

 鋳銭専門の職人であれば、「陶笵」というような言い回しは使わない。母銭の製造にあたっては、型を焼き固めて精美な品を作るのは、当たり前の行為だからである。

 このことを特定できるのは、新渡戸が教育長職を務めたのが、この明治30年だけだったという事実による。

 なお、勧業場は古貨幣の「偽造」を行ったわけでも、それに新渡戸が関与したわけでもないので、念のため。この手の話は、収集界のみで流れる誤謬である。

 収集家はコレクションにのみ興味があり、原典に当たることをしない(批判である)。

 

 さて、当品は30年近く前に、盛岡の先輩収集家より譲られた品である。

 ひと組しか存在しないので、どなたかが持っていた品かは地元の者であれば分るだろう。

 蔵主は「これはひと組しかない」と断言していた。

 当初は表面に黒漆が塗ってあったので、私が微妙な顔をしていたのか、前蔵主は「それは錆止めとして私が塗ったものだよ。これは偽物などではないよ。何故なら、今ではこういうのは作れないもの」と言った。

 素材が鉄なので、黒漆は自然に剥がれ落ちたが、実際、これと同じ物を作るのは手が掛かり過ぎると思う。

 工法を研究する目的でなければ、とてもではないがやってはいられない。

 

 銅鉄とも、各々の素材として表面が滑らかであることが最大の特徴で、「どういう手順で作ったか」を考えれば、鑑定は容易である。

 銅銭は錫味の多い、黒っぽい地金を使っているので、地金と肌、湯口の大きさ(小さい)を観察すれば、この製法によるものかどうかは一目瞭然である。

 従来、「花巻」という冠を付けられて来た絵銭の母体は、多く勧業場製に端を発しているものと推定される。

 なお、銭座の物ではない事で悲観するには当たらない。勧業場製は精美な上に、数が少ないことから、鉄瓶などの製品は非常に高額の評価がされている。

 公的機関による研究目的の品であるから、「偽物」ではない。

 古貨幣は「最初に裏を見ろ」と言うが、この品の裏面は鉄銭とは思えぬ程滑らかである。技術の精度に改めて驚く。

追記)日々の大半を病院で過ごしているので、校正が行き届かない。

 一発の書きなぐりで、誤変換を直す余裕がなかったため、幾つか誤表記が残っていた。ここはブログなのでお詫びはしないが、発見できた箇所については訂正済みである。。