




◎古貨幣迷宮事件簿 『南部大型 隆平永宝』
この品については、「博物館への寄贈」を想定していたが、単品で納入しても、おそらく退蔵されるだけである。よって、なるべく研究を望む収集家に渡した方が理解が進むと考え、紙媒体の入札誌に出品することにした。
絵銭のコレクターはネット界には居ないようで、ここに希望者はいないのだが、紙媒体の方には居られる。この場合、殆どの人にとって初見品なので、これまでの記録について整理するものとした。関心を持った人が自他問わず検索すれば、この記事に行き当たる。
このいかにも馬鹿でかい皇朝銭は一体何か?
答えは簡単で、「土瓶を置くために使用した敷物(土瓶敷)」である。
熱湯を入れるため土瓶や鉄瓶も熱を帯びる。そのまま卓上に置くと、卓が痛むので、「土瓶敷」や「鉄瓶敷」を下に敷いた。総称は「鍋敷」となる。
なお、土瓶や陶製の鍋の場合は、銅製の敷物を使い、鉄瓶や鉄鍋の場合は、鉄製を使用する。金属製でない場合は木製、布製を敷き、卓が焦げないようにする。
「絵銭」は多く「信仰用途」で作成されたものであるから、このような土瓶敷は「絵銭」ではなく調度品となる。
以上には議論の余地がない。何故なら、今も同じ系統の「金属の敷物」が作られ続けているからである。
では何故、この意匠を採ったのか。
これは貨幣の持つ「吉語」に由来する。「絵銭」であれば、信仰の対象であることがほとんどであるから、主に神仏を意匠とする。神や仏を「尻に敷く」わけには行かぬから、大黒や弁天が鍋敷きの図案として採用されることはない。
別の「縁起の良い」意匠が必要であるため、文字面に縁起の良い文字を配置した貨幣が採用されることになったのだ。
寛永通寶が一般に浸透するようになると、それまでの大陸輸入銭が使用禁止になった。その際に貨幣の意味を捉えることで、貨幣型としての利用や解釈が始まった。
「太平通寶」「開元通寶」など、一つひとつに固有の「吉語」が付けられた。
例えば「大中通寶」は「大いに中(あた)る」で、「商売繁盛」「勝負事(博打)」の護符と見なされた。
現代であれば、さしづめ「至大通寶」などは、「大学に至る」で「合格祈願」のお守りとして利用出来そうだ。
水原正太郎の著になる『南部貨幣史』には次のような解説がある。
◆「釜敷(瓶敷)」「和同開珎」(実用品)
「大型鉄鋳和同、隆平、神功等、皇朝十二銭がある。通貨の域を脱したもので、実用品として鋳造(された)と思われる。」
さて、これまでオークション等にこういった調度品らしき「貨幣型」の母型が出品されるわけだが、少々、困ったことに、この手の品は作られた時代が分からない。
これは、幕末明治から大正、昭和、平成に至るまで、作られ続けて来たからだ。
とりわけ貨幣のように市中流通する品ではないので、使用による全体の摩耗が少ない。よって「何時のものか」が判定し辛いきらいがある。
その点、掲示の品は地金が栗林座の絵銭類と同一の配合である上に、明治初期までの輪側処理(鑢)法を取っている。
なお、岩手では、明治中期頃に勧業場にて鋳造法の研究が行われ、技術革新が為された。花巻恵比寿大黒は勧業場を起源とする絵銭だが、輪側処理法が藩政期のものとは異なっている。
栗林座のものとみて疑いは無いと思う。
栗林座の職人が一千数百人だったとなると、これに必要な土瓶敷・鉄瓶敷は二百枚から多くとも三百枚である。
非常に数が少ないので、発見例がほとんどなく、同型の隆平永宝は、戦前に新渡戸仙岳が著した『南部藩銭譜』の中に拓が一枚掲載されているだけである。
調度品としては多く存在しているが、古い品、とりわけ銭座製の品は希少である。
画像で分かる通り、時代色も鮮明だ。
時々、「こういう品は貨幣として意味が無いから偽物だ」と記す人がいるが、ただの勉強不足だ。少し調べればすぐに分かる話。
原典、現地にあたり、「手の上の銭一枚に関するただの印象」に留まらぬよう、理解を深める姿勢が大切だ。
最後は苦言で締め括る。
追記)銭径が大きいので、棹を通して輪側処理することをしないで、一枚ずつ平置きにして、手で持った鑢(または粗砥)を動かして輪側のバリを削ったようだ。線条痕(鑢痕)が不規則となっている。
追記2)鋳浚ってあるところを見ると、鉄銭の母型にしようとした品かも知れぬ。鋳不足穴があり、実際に使用したかは定かではない。なお鉄瓶敷であれば、谷に鋳不足穴が
あってもさしたる影響は無い。