日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎扉を叩く音(続)

◎扉を叩く音(続)

 例年、秋から冬にかけて、「深夜、玄関の扉を叩く音がする」話の続きになる。

 最近はもはや「出入り自由」の状態なので、記事としては成り立ちにくくなって来た。

 

 さて、先ほどまで居間で眠っていたのだが、ガラス窓を右手人差指の第一関節(付け根の方)で「コンコン」と叩く音がしたので、その音で目を覚ました。

 隣の部屋に息子がいたが、その息子の様子を見ると平然としていた。よって、音は当方の頭の中だけで響いた模様だ。聞こえていれば、少なからず驚く。

 こういう音が息子にも聞こえる時があるが、私本人はそれが「実際に鳴っている音」なのか、「空耳」なのかという区別がつかない。

 性質が異なれば対処の仕方が違うので、見極めをする必要があり、すごく面倒臭い。

 ま、私だけに聞こえる音であれば、「そろそろ目覚めて働け」という「内なる声」かもしれぬ。

 

 だが、階段を上ろうとすると、また途中で灯りが消えた。しばらく前にも起きたが、配線の故障や電球切れではない。

 とりあえず「こういうのは止めろと言っただろ」と厳しい口調で声に出した。

 それでパッと灯りが点くのだが、言葉をはっきりと声に出しているので、息子は「いったい誰と話しているのか」と思った筈だ。

 人に対するのと同じように振舞う必要があるから、これもかなり面倒だ。そもそも私の場合、相手の数が多い。

 こういう面倒ごとがあるだけでなく、世間的には「ちょっとイカれた人」になっている筈だ。

 

 ま、「あいつはイカれている」という話が聞こえたら、即座に「見た後で悪影響が残る」ものを送るか、あるいはその人の写真を撮ってやろうと思う。

 「お前の後ろにはこんなヤツが」

 実際に眼にすると、最初はもの凄くショックを受けるわけだが、いざ「いる」と認識すると、どんどん先に進むし、もはや止めてくれなくなる。

 人によっては、以後、「現実そのもの」になるわけだが、最も困るのは「他人がそれを塵ほども理解しない」ことだ。

 母が「真夜中の訪問者」について一切口外しなかったのは、自身が「変人だと思われる」ことに加え、「どうせ理解などして貰えない」からだった(たぶん)。

 幸い(?)私はもはや出して見せることが出来るわけだが、その片鱗を見た人は大急ぎで逃げ出す。

 自分のそれまでの考えがまるで通用しないからだろう。

 

 ま、私は人間嫌いなので、交流交際が少ない方が助かる。

 誰の身にも私と変わらぬことが起きているのだが、その人の後ろにいる者がこっちを見れば、必ずや乗り換えて来ようとする筈だ。

 他人の悪縁まで拾っている余裕は無いわけで。

 おまけにそれを抱えていた当人はそのことをまったく認識していないので、きれいになっても感謝されることがない。これは当人が自覚していないのだから当たり前だと思う。

 しかし、誰の後ろにも数体はいる。幽霊はそういうものだ。

 だが、それに一切気付かぬのであれば、「存在しない」のと同じことだ。

 聞く耳を持たぬところに「音」は存在しない。

 

 一方、私にはもはや平穏な日々は戻らないと思う。