◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄餅の地金」 (回答)
掲図は「鉄餅」と、勧業場の代表銭種である「濶縁大黒」になる。
岩手勧業場にて鋳造工法の実験が行われたのは、明治三十年の一年間だけだ。
この時には殖産興業の流れに基づいて、南部鉄瓶の工法を洗練させたものにする目的で、鉄瓶職人や鋳銭職人を招聘して教授を受けたようだ。
勧業場では、明治三十年銘の南部鉄瓶や、各種古銭が作られたが、現物も多く残されている。
明治三十年より前の鉄瓶や幕末明治初年の寛永鉄銭の肌を比べてみると、技術的に数段進歩したことが分かる。
そのことで、この技術が使われていれば、「明治中期より後の鉄」と見なすことが出来る。
鉄絵銭は製品で、鉄餅は備品または材料の取り扱いになるから丁寧さは幾らか異なるが、寛永鉄銭と比較すると、違いが歴然だ。
勧業場の鋳銭についても「砂遣い」に独特の工法が開発されているので、銅銭であってもこの地肌を観察することで、「幕末明治初年のもの」とを区分できるようになった。
とりわけ母銭を製造するための技法を応用した「陶笵」は勧業場ならではの作品である。陶笵技法は花巻大黒・恵比寿銭でも採用されており、製作を見る限り、この絵銭は勧業場由来の品であろう。
なお勧業場は公立の施設であり、特に「偽物を作ろつとして作成したものではない」ので、念のため。