日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「雑銭の中から」その2

◎古貨幣迷宮事件簿 「雑銭の中から」その2

 順次、雑銭を送り出しているのだが、その都度、新しい包みが出て来る。

 昨日も家人が居間の掃除をしていて、長椅子の後ろからバスケットやら段ボールの小箱を見つけ出した。どうやら雑銭の会の買い入れの残りのよう。そうなると二十五年年以上前のものだ。

 ウェブに「買い入れ」告知を掲載すると、全国から段ボール箱が届いた話は、前にも記した通りだ。多い時には一週間に七ハ個も届いていた時期もある。

 大半が記念貨や近代貨の銅貨・アルミ貨で、買っても仕方がない品だ。欲しい人がいない。そこで結局、「近代貨のみはお断りします」と掲示した。

 「対応は穴銭もある時だけ」としたが、これは目的が業者的売買ではなく、奥州の穴銭研究の足しにするためだったからだ。

 実際、「蔵に大量の古銭がある」や「金融機関の金庫にこんなものが」という報せも年に数度は届いた。こういうのは見に行くだけでも楽しい。

 しかし、やはり大半は近代貨幣だ。さすがにウンザリして、買い入れ自体を止めた。

 買い入れ品は私の郷里の倉庫に送っていたが、すぐに部屋二つが段ボールで満杯になった。損切りのため放出を始めたが、これには二十年近くかかり、ようやく倉庫が片付いたのは数年前になる。

 銀貨は銀地金の方が高いので地金、青銅貨はまとめ売りにした。その他は屑鉄屋へ。

 単価に見合う買い手は無い。ちなみに、今は並品であれば銀貨は銀地金の方がずっと売値が上だ。ただ「知る人ぞ知る」だが、銀地金は重量をまとめぬと取引してくれぬ場合がある。

 

 穴あきの雑銭は、私が出張した時に古道具屋や買い出しより買い集めたもの。

 ま、詳細を眺めている暇は無いから、そのまま小袋に入れ、箱や籠に放り込んであった。

 

常平通寶

 果たして今これを集めている人がいるのかどうか。母銭であれば美銭が多いので収集の対象になるだろうが、小型銭は見るに堪えぬ品が多い。

 ところで、常平通寶と言えば、師匠であり先輩であったO氏にはこんな逸話がある。

 O氏は最初、進駐軍の基地に職を得て、横田基地などで働いた。

 何かの折に半島に行ったが、古道具屋を覗くと、常平通寶の母銭が山ほど積まれていた。日本で小売りすればひとつ数千円だが、現地では経済活動が滞っていたので、枚単価で幾らでもない価格がついていた。

 だが、買い取ったにせよ、日本に運ぶのにひと工夫が必要だった。通関できるかどうか、あるいはどれくらいの税を付与されるかどうか不確かだ。儲け話となったら、役人でも食い付いて来るような時代だった。

 O氏は思案したが、半島には日本同様に米軍基地があったし、知り合いもいる。

 そこで米軍人に依頼し、母銭を基地経由で横田まで輸送して貰ったそうだ。

 軍隊は通常の税関を通らず、事実上、フリーパスだから、経費は軍人たちへの返礼だけで済んだそうだ。この時の儲けが基盤となり、O氏は基地を辞め、古銭や骨董の商売を始めることにした。

 半世紀以上前の話だし、O氏も物故されたので、もはやこの辺の経緯を書いても構わぬと思う。

 私が自社事業を展開していたので、花巻の例会の後では、専ら事業の話をした。

 まだ知り合って間もない頃、O氏が基地で働いていたことを知らなかったので、家人と流暢に英語で話されるのを聞き、少なからず驚かされた。年齢的に外国語の会話の出来る人は少数派だ。

 

 ちなみに私は半島の人も文化も到底好きにはなれぬので、こういう品は供養銭として野山にばら撒くつもりだ。別にこれより上の品もあったと思うが、調べる気にもなれぬ。   

 

バラ銭(絵銭混じり)図03

 昭和の絵銭が混じっている雑銭は、よく青森から出た。五所川原近辺から、古くも無ければ、最近の出来とも言えぬ絵銭類を「買ってくれないか」という連絡が時々来た。

 大正初めくらいに好景気になるのだが、その時に香具師が屋台にならべ絵銭を売ったようだ。東京にはあまり届かぬようだが、大正から昭和の地方絵銭は研究の対象となり得ると思う。明治の絵銭作者には小田部ら複数の有名作家がいるが、大正以降の地方にも各々独特の絵銭を作った者がいる。

 

寛永当四鉄銭

 ざっと見たところ、概ね高炉鉄で栗林から橋野銭が混じっている。少し出来の違うつくりのものもあるから、別の座銭もあるかもしれぬ。

 中央右は、型で分かるような橋野銭だ。橋野では、母銭を作り直すところから始めたようで、大迫や栗林とは文字の位置関係が異なるものがある。

 「大きく」「厚く」「角が立っている」のが、橋野銭の基本的な特徴だ。鉄の地金と、基本的な型を憶えてしまうと、特徴を備えた品についてはさくさくと分類できるようになる。

 ま、銭譜の通り、「背盛」「仰寶」「マ頭通」をそれぞれ1、2枚ずつ見るだけで満足出来るなら気にする必要はない。拓本では解決しないから、拓だけを眺めても何ひとつ知見は得られない。繰り返し指摘して来たように、「分類」では南部銭は何ひとつ解決しない。

 

目寛見寛座鉄銭

 サイズだけ見て「目寛か見寛だろう」で留まる人が多いと思うが、このサイズの品には、その他に「縮字」や「背元」、そこから派生した「背元様」、目寛の手前の「座寛」、「背千」、「舌千類」らが混然となっている。

 「広穿マ頭通」など背千から展開した銭種もあるから、気を付けて見ると楽しい発見があるかもしれん。面文が読めぬことが多く、イライラさせられるが、前述の通り、配分比に直目すると、銭種の推測が割と容易に立つ。

 袋の中に銅銭が混じっていて、ドキッとさせられた。砂抜けが悪いから、写しだろうが、四つ宝銭の何かのようだ。「座寛」から「目寛」に至る間には、幾つかミッシングリンクがあるから、根気よく状態の悪い銅銭写しを観察すると良いと思う。

 私はついぞ「座寛の鋳写し母」を発見出来なかった。たぶん、存在してはいるが、状態が悪いので収集家に見て貰えぬのだろう。

 

密鋳当四銭 俯永写し

 地金が堅めだが、延展銭や踏潰には時々見られる。

 輪側の線条痕が「斜め横」方向なので、公営銭座のものではない。

 輪が不揃いであることや、砂目が粗い風貌がいかにも密鋳銭らしい。

 たまたま拾ったので、ホルダーに入れ別にして置いたようだ。

 

注記)いつも通り、一発書き殴りの上、、今は眼疾で完全ブラインドタッチで、推敲も校正もしない。その程度の内容と言うこと。