日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の解法」(続)

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鉄銭の解法(続)

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の解法」(続)

 では、ある若者一人のために鉄銭の考え方についてバラバラと記す。これは君が「一歩前に出た」から伝えるということ。鉄銭について質問して来た人はこれまで一人しかいない。きちんと見聞きする者がいれば、太鼓を叩き、踊るし唄う。

(1)大迫銭と山内錢には似ているものがある

 南部銭を解く鍵は『岩手に於ける鋳銭』(昭和九年稿)なので、まずはこれを読むことが必要だが、これはなかなか読み解くのが難しい。文字面だけを追っても、その当時には分かっていなかったこともある。

 著者の新渡戸仙岳は、明治三十年に岩手県の教育長に就任した。今でいえば教育委員会の長以上の役職で事実上、教育界トップだ。

 勧業場は産業振興と技術教育を目的とする機関だが、この年には、紡織と鋳造技術の技術開発を行っていた。展示会を開き、県産品を売る機会を設けるだけでなく、職人を招聘し技術開発を行っていた。この年に作られた鉄瓶類が多数残っている。

 鋳造貨幣の研究も、この時にかつての銭座職人を招いて行ったわけだが、その場に新渡戸仙岳も同席し、口頭で聴取を行い、それを記したのが『銭貨雑纂』になる。要はメモ書きだった。(メモ書きだから情報が不十分で言い回しが独特なものになっている。)

 秋には、教育部の司書が公費横領事件を起こし、その年のうちに、代表責任を取って新渡戸は辞職する。よって、新渡戸が教育長だった期間は半年かそこらだ。勧業場との繋がりもそこで切れ、後に「南部史談会」で、当時の県職員であった宮福蔵、砂子沢某らにそこで再会することになる。

 要するに、狭義の「鋳銭技術」に関する情報は不完全なものだった。

 『岩手に於ける鋳銭』を読むと、大迫銭座では「橋野高炉より銑鉄を買い入れて、それを材料とした」と記してある。

 だが、銭座跡からの発掘銭を見ると、高炉由来の素材だけではなく、づく鉄(砂鉄を溶かして取り出した一回目の鉄)由来の銭が含まれている。

 実際には、多方面から素材を買い集めていたようだ。もちろん、これは「橋野より銑鉄を買い、それを主原料とした」と見なすことで事足りる。

 こういう細かな補足情報を得るには『岩手に於ける鋳銭』を読むだけではダメで、さらに『山内に於ける鋳銭』を併せて考える必要が生じる。

 

 前置きが長くなったが、この「大迫銭座」「山内銭座」の関係がなかなか面白い。

 大迫に銭座が開かれるのは慶応三年だが、これよりかなり前から、山内では鋳銭が研究されている。背盛や仰寶が出来る前なので別錢種になるが、その詳細は分からない。

 前回あたりに記したと思うが、「玉鋼の背盛」も浄法寺から出た品だ。少なくとも、同時並行的に大迫と山内で技術開発が行われていたということだ。

 結果的に大迫と山内には似た仕様の銭が存在するようになった。

 大迫=高炉鉄、山内=砂鉄と簡単に線を引ければ、まだ楽な話だったが、大迫にはそこで作ったとした思えぬ銭が現に存在している。

 これは「手の上の銭」を幾ら眺めていても分からない。

 「どこから出たか」「どのような状況にあったか」という情報が大切なのはそこにある。不思議なことに、収集家の殆どはあまりこのことを問い質さない。

 図1は左右ともよく似ている。再鋳銭と砂鉄銭(直接たたら炉から型に入れた)という違いはあるが、概ねそっくりだ。

 大迫であれば、早い段階の型であるし、山内であれば濶縁系統から派生した型になる。研ぎが入っているように、面背とも滑らかな山肌をしている。

 だが左は発掘銭と一緒に貰い受けた品であるし、右は「異足寶」を含むむ砂鉄銭に混じっていた品になる。前者は発掘銭とは限らぬので、大迫と断定出来ぬ。かたや「異足寶」は山内固有の背盛であるから、山内錢と見てよい。

 流通し、様々な銭が混じっていると「言えぬ」ことが多くなるのだが、銭種が揃っていると、推定できることが増える。

 

(2)俵結びの鉄銭 

 前にも記したが、割とまとまって入手したこともあり、この俵結びの鉄銭については、差し上げたり、廉価で売却したりした。

 その際、驚かされたことには、ほぼ収集家全員がその場で紐を解いて中を検めたことだ。思わず、「え。これは解いたらダメですよ」と口に出して伝えた。

 鉄銭を検めたところで、さしたる物は出て来ない。珍錢探査が不要なのが、鉄銭の世界だ。そんなことより、「俵状に包んである」ことの方がはるかに重要だ。

 金属が違えば、交換相場が変動したことは、小判や丁銀の貨幣単位が違うことで知られている。これは同じ銭貨である、銅銭、鉄銭でも同じだ。

 銅銭と鉄銭は、等価交換してくれるわけではわけではなく、交換相場があった。

 金属貨の交換相場の基盤となるのは、地金そのものの価値による。金銀や銅鉄自体に一定の価値があり、その市場評価に連動し、交換相場が決まる。

 これが激変するのは、慶応三年から四年(明治初)年頃だ。

 各地に高炉が建設され、鉄の生産量が飛躍的に増加した。

 一方、鉄銭は盛んに密鋳銭が作られるようになっていたから、鉄価格の下落に応じ、評価が下がることになる。

 明治の初め頃で、銅銭一文が鉄銭六文くらいで、その後、これが最大、銅銭一文が鉄銭八文まで開いたとされる。

 この基本的な知識があれば、当然のことながら、「この俵結びの鉄銭は、銅銭何文に相当したのか?」という疑問が湧き上がる。

 ここで初めて、紐を解いて中を検めると、中身は「鉄密鋳銭」で「概ね十一枚」となっていた。なお「概ね」というのは「十二枚」の括りがあったことによる。

 ここで重量に目を転じると、総重量では概ね41㌘内外となっている。

 1匁=3.75㌘であるから、×11枚で、ちょうど11枚で41.25㌘になる。

 銅一文銭の重量は1枚=1匁が基準となるので、おそらく「銅銭▢文に対し、鉄銭11枚(または匁)」という交換比率であったと推測できる。

 「では、銅銭で換算すると、一体、何文なのか?」 

 俵結びの鉄銭一個で、これだけの知的遊びが楽しめる。

 答えは「一文」「二文」「四文」のいずれかだ。

 「一文」「四文」は銅銭の貨幣単位だから候補として分かりよいが、「二文」はどこから?という疑問が生じるわけだが、これは「銅1:鉄11」は「記録に残っていない」という理由による。

 最初に「四文」が候補から脱落するので、「一」か「二」ということになるが、恐らくは「銅一文」だろうと思う。程なく鉄銭は明治の新貨幣に替えて貰えなくなる。

 

(3)舌千大字の周辺

 前にも記したが、希少品とも言える「八戸舌千大字(様)」という銭種は、母銭ならお金を出せば概ね入手できる。

 だが、通用鉄銭はそうは行かない。それと分かる状態の品がほとんどないからだ。

 分かりよい裏面(背)の舌字が見えることは稀だし、面文も特徴の分かるほど鮮明な品が少ない。

 色んな銭種を並べてみて、そこで初めて、「そもそも銭径が違う」ことに気付く程度だ。撰銭では、まずもって見付けられない。

 銭文の「寶貝」に微妙な特徴はあるが、ここもきれいには出ぬことが多いので決め手がほとんどない。

 ありそうだが「まるでない」銭種の代表格が、この「舌千大字」と「背長の鉄写し」となっている。

 

 これに比べ、割と拾いよいのが舌千小字(様)だ。これは面文に奇異な特徴があるから、これに眼を付ければ選り出しは可能だ。後は北奥の密鋳銭を入手できるかどうかということ。

 

 「水永(背元様)」も選り出し自体は難しくない。銭径が「目寛・見寛」サイズなので、最初にこれらをより分け、その中から面文で分別すると良い。

 もちろん、「あれば分かる」という意味で、「手に入る」ということではない。

 選り出すよりも買った方が早いのだが、一枚ずつ買い集めていると、「どういう状況の品に混じっているか」が分からない。

 それが分からぬと、石巻銭をきれいに踏襲した「小字背千」と、「目寛見寛」、「水永」を同じ葛巻鋳にしてしまう。

 鋳銭技術と工法工程がまるで違う品が、もし同じ銭座内で作られたものだったとすれば、何か所かに工房を分けて、独立した作業を行わねばならない。

 ナンセンスな話なのだが、「手の上の一枚」だけを見比べていると、そんな硬直した思考に陥ることになる。

 必要なのは大量観察だ。何故なら作る時には大量に製造している。作った者の考えに近づくには、同じように眺めるしかない。

 「オークションで買うな」「珍錢探査に陥るな」と言うのは、この点による。

 「珍品」から製造者の「心」が見えることはない。

 

注記)いつも通り、「一発書き殴り」で直接書いているので、不首尾はあると思う。その辺は了解ください。