日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「南部銭のあれこれ」その2 (『南部駒』より)

南部銭のあれこれ その2

◎古貨幣迷宮事件簿 「南部銭のあれこれ」その2(『南部駒』より)

 引き続き、『南部駒』より一部引用し、K氏の思い出を記す。普通は他人の持ち物についてあれこれ品評などせぬものだが、K氏より「解明してくれ」と言われていることもあり、私見を明確に記そうと思う。これが先輩K氏への御礼だ。

 なお文中には個人名を記してあり、匿名にする意味はあまりないのだが、無暗にひとの名を出すのは憚られるので、ひとまずK氏と記す。

 

1)寛永当四 石巻削頭千無背 濶縁 鉄銭

 この品については、K氏本人が専門誌に報告したことで、詳細を知っている人も多いと思う。

  経緯はこうだ。

 K氏は鉄銭をまとまって買い入れたが、錆に覆われていた。概ね仙台銭のようだったので、無頓着にヌメリ取りに漬け、錆を洗い流した。シートの上にその銭を撒いて乾燥させようとしたのだが、一枚だけおかしな品があった。

 この時には「一枚だけ浮き上がって見えた」そうだ。撰銭経験を重ねていると、希少品が「光って見える」「浮いて見える」ことが実際にあるから、この件にはすこぶる共感した。

 ま、一目瞭然だが、異様に輪幅が厚い。

 K氏が面文を見ると、削頭千無背に疑いない。この型には覚えがあり、削頭千の無背銭には濶縁の手がある。だが、母銭の発見例はあっても、通用鉄銭はそれまで見つかっていなかった。そこで各方面に照会したが、銭種として疑いのない品だった。

 

 最初に持病を治療した後、五年を過ぎると、K氏は従前のように喫煙を再開していた。病への恐れが小さくなっていたのだろう。私は「控えた方がよい」と意見したかったが、先輩でもあるし、日頃世話になっている。花巻の例会には、電車で参加したことがあったが、そういった時には、K氏はわざわざ車で盛岡まで送ってくれた。

 そういう状況でもあり、忠告などとても言えなかった。

 程なく持病が再発したが、転移も認められたので、ある程度、先を覚悟したのだろう。K氏は自宅に私を呼び、「自分は病気だから、収集品の処分を始めようと思う。この品を東京で売って来て貰えぬか」と五六品ほどを私に預けた。

 この品もその時に預けられた品のひとつだった。

 拓本では収縮して見え、現物の迫力には遠く及ばぬ。直に手で触らせて貰ったが、もの凄い迫力だった。

 現存一品の品だから、相場は無い。買い手が買えるか買えぬかの判断だけ。

 売値は百万を超えていたから、なかなか買い手が付かない。道楽にその金を投資するには決心がいる。皆に周知された品ならまだしも、初見品となると手を出し難い。

  初見品に飛び込むには、金ではなく知識と経験がいる。

 さらに普通は「鑑定意見の合意」という問題があるのだが、その点については、大鋳銭座の出来銭でもあり、製作は容易に判定できる。それが分らぬのは経験不足で、要は「目が利かぬ」ということ。

 関西に売却が決まるまでに半年くらいかかったと思う。かなり各地を歩いた。

 

 世話になった先輩が事情により売却することになったという経緯から、売却のお手伝いはしたが「自分にも品物を譲ってくれ」とはついぞ言えなかった。

 最初の日に「これはあんたが持って解明してくれ」と言われた数点を下げ渡されたが、他の品については静観した。

 人事で最も大切なのは仁義だから当たり前だ。収集家には最も乏しいのがこの「仁義」になる。死に間際や死んだ直後には、やたら友だちが増える。

 見舞いもせず、葬式にも来ぬくせに、何が「親しい友だった」だ。

 やってはいけないことの代表が「殺人・強盗・詐欺・骨董」の順だという。古貨幣はもちろん、骨董の仲間だ。

 よって、若者には収集を勧めない。金をためて、マチュピチュでも見に行った方がよほど人生を豊かにする。

 

2)目寛見寛座 目寛母銭各種

 「目寛見寛類は葛巻銭ではない」というのが当時の共通認識だったが、その先は解釈が分かれる。小笠原白雲居の『南部鋳銭考』は、事例を羅列的に記したもので体系的な見解を持たぬわけだが、熟読するうちに、葛巻で働いた職人がさらに二戸や軽米に移り、独自に鋳銭を展開したことが分かる。

 目寛見寛類は、葛巻とは製造技法が異なるので、独自の工法を持っていた、すなわち別の銭座で作られたものであることが明白である。同一の銭座で、仕様を異にする銭種を、別々の工具を使って作るとしたら、作業が煩雑になるだけだ。

 銭種の系統では、母銭の仕上げ手法から見て、目寛、見寛が主力で、背千、舌千が少々に留まる構成だから、葛巻から母銭を大量には持ち出さなかったのだろう。

 NコインズO氏や私は、「通用銭改造母を起点に、規格を揃えるところから始めた」という見解を取った。その意味で、最も親和性が高いのは、「目寛は座寛」「見寛は四年銭」を台として派生したものだという見方だ。見寛が背千の面文に似ているのは、そもそも仙台銭は公用銭に範を取って作った銭だからということ。

 この傍証は、明らかに「縮字」「背元」等の銭種を改造したこの座の銭種が存在していることによる。まずは通用銭を改造し、最初に鋳写し母を作り、これを用いて、汎用母銭を大量に作った。銭種を絞ったのは、「出来銭の規格を統一する」目的による。

  どのくらいの投資と労力でどれほどの出来銭が出来るかを予測するには、一枚ごとの規格が揃っていることが必要となる。要は経済の問題だ。

 K氏はこの報告で見る限り、「見寛は舌千系統」と見ていたようだ。文字が矮小化されているということだろうが、目寛見寛座にも舌千の写しが幾らかある。

 ま、目寛見寛座で、何故著しく銭径が縮小したか、文字が歪んだかについては、繰り返し説明したので、ここでは避ける。

 この座の仕様の背千類、舌千類の母銭の存在状況を見ると、ごく少数で、規格がまちまちとなっている、とだけ記す。

 ちなみに、末尾に「目寛銅銭」が掲載されているが、これは「座寛写し」ではないかと思う。  

 ひとつ手前が目寛の山形極印銭だが、私はこれまで見たことが無い。見寛よりこちらの方が少ないのではないか。

 何故極印を打ったかは定かではない。ある人は「廃棄母銭では」という説を唱えていたが、公用銭座でもないので、使わなくなった母銭は通用に落とせばそれでこと足りる。

 今のところ、目寛見寛母銭にしか打たれていないようだ。

 

3)見寛母銭、4)踏潰浄法寺写

 頁の末尾におまけのように添付されていたが、4)は浄法寺仕様の踏潰銭ということだ。報告例が数例あるが、現物を見たことが無いので、山内系統なのか称浄法寺銭なのかは不明。いずれにせよ、浄法寺銭のいずれかの時期よりも前に踏潰が存在していたという意味だ。踏潰は明和の差しによく混じっている。

 

5)文久貨泉 当百

 文久貨泉の発見のプロセスについては、旧『貨幣』誌か『ボナンザ』といった専門誌に掲載されていたと思う。カマスで出たのだが、大半が割れ銭だったから、完品の存在は希少である。

 かなり前に発見されていたので、贋作が多いのだが、製作は一手なので、貨幣博物館などで最初に発見された品をよく見れば、判断に迷うことが無い。

 とりわけ、鉄の地金と砂笵の勉強をすれば、製作を見るだけでどの手順で作ったかが分かる。高炉で一旦、銑鉄を取り出した後、これを再熔解し鋳銭したもので、仙台銭の鋳銭手順に沿っている。

 高炉建設を指導したのが盛岡藩だから、当たり前だが、盛岡藩の同時期の高炉鉄にも似ている。参考図を見れば分かるが、鉄のつくりがよく似ている。

 6)大迫駒引は、橋野の銑鉄由来と砂鉄由来の再鋳銭の双方があるようだが、再鋳銭だけに地金が似て来る。

 いずれも背が浅いという特徴があるが、これは、砂笵の上下(表裏)の関係で自然にこうなっただけではないようだ。

 5)は明らかに母銭の背面を研磨している。一般的には、製造段階で量目を調節したという解釈になる。

 鉄銭の地金と砂はほぼ一手だが、母銭であるはずの銅銭・銅母の製作は多々ある。

 通用銭から逆算して、型に合わぬ品があるから、銅銭・母には注意が必要だ。鉄銭の発見時に一緒に出たものではない。

 

7)南部大中通寶

 南部大中通寶は拓本と画像を見たことのある人が多いと思うが、いずれもK氏の収集品のものだ。文中に記載がある通り、存在は五六品だけ。

 私が見た時には鮮やかなオレンジ色だったが、古色は小豆色に変わる。K氏も「小豆色」と記している。

 「大中通寶」は吉語としての意味を取ったもので、「大いに中(アタ)る」を表したものだ、「商売繁盛」と同じことで、厭勝銭もしくは信仰絵銭として作成したものになる。中国銭の写しではないので念の為。

 「布泉のつくりと同じ」と記してあるが、コレクターが目に出来るのは、同じ布泉と言っても浄法寺写しの方だから「黒っぽい」という印象を持つ人が多い。黒っぽい「浄法寺銭」というふれこみの品には、後作品が混じっているので注意が必要だ。地元の人も某県の入札で買い、所有していたりするから、「地元の人が持っていた」は信用しないこと。「どこから出たか」という氏素性を丁寧に探ること。

 特に「黒っぽい鋳放し」はO氏が盛んに作った品がある。称浄法寺銭を意識しつつ、仕上げをしなかった。仕上げで最も贋作が露見しやすい。

 「研究のため」は嘘八百で、そう言って安価な品だけを見せている。かなりの希少品も作っているが、知らずに買っている収集家がいる。これは一番上の出来だ。

 いつも記すが、南部で一枚も出ていない希少品が関東の雑銭から出る。試鋳銭や稟議銭のような銭がどうやって流通したのか?

 

 さて、浄法寺写しではない布泉は、記述の通り、小豆色となっている。なお、鋳所は分からないが、大迫ではないと思う。

  小型の画像が無かったので、金色の同じ大型布泉銭を添えるが、大型は現存一品となる。

 製作が小規模絵銭座のものではなく、大量鋳銭をしていた工具を使用しているから、閉伊方面の鉄銭座で作ったものかも知れぬ。ま、それは憶測にもならぬ。

 レアケースを実際に見ていれば想像がつくが、今では横の交流が乏しくなっており、存在を知らぬ人も多い。

 大型布泉を開示しても、反応が乏しいことに逆に驚かされる。

 中国銭でも、その写しでもなく、北奥由来の絵銭だ。

 

注記)いつも通り一発書き殴りのうえ、眼疾で文字が見えず、推敲も校正もしない。不首尾はあると思うが、あくまで雑感であり日記の範疇だ。