日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「北奥地方での七福神銭の展開」

◎古貨幣迷宮事件簿 「北奥地方での七福神銭の展開」

 古貨幣について概ね興味を失いつつあったが、五月頃をピークとした「今生の危機的局面」をどうやら脱したようなので、少し眺める余裕が出来た。

 もちろん、次の一月二月には再び危機が来るであろうことは疑いない。ま、自己免疫と医療、そして第六感を総動員して対処に当たって行く。

 

 さて、北奥地方に入ると、絵銭が地域に応じた変化を加えて行く。

 この辺は、銭種の観察では太刀打ちできぬから、「銭容」を基に「鋳造工程」を手掛かりにして探って行くしかない。「※※という銭種であれば、※※銭座のもので」というレトリックが使えぬので、慣れるまではイライラすると思う。

 だが、公営銭座のものでなくとも、ある程度大きな銭座であれば、工法を定式化させているので、各々独自の流儀がある。もちろん、ひとつではなく小さな変更が加えられたりもするが、大別は可能である。これは「あたりを付けられる」と言う意味だ。

 浄法寺には浄法寺の、八戸には八戸の流儀(工程)があるので、そこに着目すれば、割と目安がつけやすくなる。

 代表的事例を七福神銭で挙げると、画像のようになる。

 総て、鋳造方法に少しずつ相違があるので、そこに着目すればよい。

 

 1)は他領製のサイズなのだが、輪と穿に修正が入っており、通用銭を母銭転用したものだ。全体の風貌から見て、輪穿に刀を入れただけで、図案への加刀が無いので鉄銭の母銭としたと考えられる。

  地金の配合から見て、既に製造地が南部領に入っている可能性があるが、後入れの加工が為されているため、鑢目と穿の判断が出来ない。寛永銭なら「改造母」の位置づけになる。

 

 2)浄法寺七福神は銭種そのものが浄法寺銭になる。慶応期の浄法寺密鋳銭は割と大規模に行われたため、製造工程を規格化している。竿を通して加工する際に力が加わり、穿が広がり、かつ左にずれたのだが、鋳写しの段階を経るごとにこれが、より左に寄って行く。

 通称で「穴ずれ七福神」と呼ばれる銭種なのだが、この品のようにずれが小さくとも、「穴ずれ七福神」と同じルーツの品になる。強いて言えば「ずれ無し穴ずれ七福神」だが、系統で言えば同じなのだから「穴ずれ」の名称一つがあればよい。

 輪側処理などは、寛永銭(母銭)製作の手法と同一なので、よく見て置くと役に立つ。鑢が不規則に斜め横方向なのは、「銭竿を固定して、粗砥の方を動かした」と言う意味だ。ま、これは南部銭を研究している者なら誰でも知っている常識だ。

 

 3)南部七福神は、名称的には盛岡八戸の双方が視野に入り、守備範囲がむしろ広くなってしまうのだが、南部銭に見えるとはいえ詳細な線引きが出来ない。

 銭径が小さく、赤く仕立てられているので、八戸寄りなのだろうが、小規模の鋳造らしく、輪側の処置が乱雑である。「八戸」とは特定できない。

 片面印判の押印製のようにも見えるのだが、背にうっすらと外郭の痕が見える。

 「写し」ではなさそうなので、笵にそれらしく描いたのかもしれぬ。

 

 4)八戸七福神は割と判別が容易だ。地金色と縮小度に加え、輪側の処理を縦方向に寄せてある。八戸の鉄銭の密鋳は、北奥では割と早くから始まっており、横鑢の技法が始まる前の縦鑢方式のものが多い。当たり前だが、目寛見寛座のように数量(枚数)を産出した密鋳銭座などよりも、ごく小規模の鋳銭を行ったところの方が多いから、3)のような乱雑な仕上げの品もあるわけだが、縦鑢はそれらよりも古くからあるということだ。

 良い珪砂が得難くかったのか、母銭を製作する段階では粘土型を多用したようだ。

 山砂の砂型より表面の滑らかな品が作れるが、粘土型は型自体が縮小しやすいという不都合がある。

 前回記述の通り、笵に判子を押し、片面ずつを鋳造した上で上下を合わせて原母を作るのが正攻法なのだが、そのまま片面だけの絵銭にしたり、あるいは各々を別々に押して笵の上下に合わせるという横着な方法を採ったようだ。もちろん、あくまで推定による。

 興味を持つ人が皆無なので、これまで「これを見れば一発で分かる」という話をしたことはない。鋳造工法に着目しても、一定の枚数を見て置く必要があるから、これは致し方ない。文字テキストを読んでも、現物の個別判断は難しい。

 北奥独特の難しさは、「何かひとつの要因があれば、それだけで分類出来る」わけではないところにある。

 

注記)推敲も校正もしないので、不首尾はあります。