日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「見寛の成り立ち」

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見寛の成り立ち

◎古貨幣迷宮事件簿 「見寛の成り立ち」

 NコインズO氏と八戸銭の議論を始めたのは、もはや三十年近く前のことだ。

 それも私の思い付きの質問がきっかけだった。

 「寛永銭の銭譜を見ると、葛巻銭として背千類と共に目寛見寛を取り扱っている。背千にせよ舌銭にせよ、目寛見寛とは製作がまるで違うのに『同じ銭座で作った』なんてことがあるのですか」

 葛巻背千の母銭類は蒲鉾型に輪側を仕上げている。かたや目寛見寛類は輪側が直立するものが大半だ。これは銭を整える時の「装置が違う」ことを意味する。

 これでは、同一の銭座内に別々の装置を置いて、各々が自分なりの仕上げを行っていた、みたいな話になる。

 時々、私が「古銭収集家は手の上の銭ばかり見ている」と揶揄するのはここだ。

 古銭書には、この手のアリエネー話が、まるで見て来たように書いてあったりする。

 密鋳銭の一工期はせいぜいい三旬から四旬だ。その間に母銭を揃え、鋳造し、銭の形に整える。小規模密鋳銭ならさらに短い。なるべくことが露見しないようにするには早く終わらせる必要があるからだ。

 

 議論の経過は省略するが、最大の疑問は目寛・見寛の成り立ちに関するものだった。

 『南部鋳銭考』には、目寛見寛座は葛巻の職人だった藤八(藤七という記述もある)が二戸で企図したものだという由が記されている。

 葛巻の職人であれば、幾らかはタネ銭の持ち出しが出来たろうから、藤八が背千類を持っていたことは想像に難くない。実際、輪側の仕上げが目寛見寛と同じ仕様の背千母銭が存在している。

 だが、藤八が主に採用したのは、一般通用銭を改造した母銭が起点となっている。

 この場合、「背元」「縮字」などは、割と原型の特徴を留めた銭が母子双方に残っている。面文の書体の特徴がそのまま残っているので見分けやすいのだが、存在数は多くない。

 「縮字」は「鋳写し母」もしくは「改造母」から鉄銭鋳造に進んでおり、「背元」は「鋳写し母」があり、そこからさらに展開し、背文字(元)を削除した母子系統が派生している(「水永」)。起点は通用銭改造母で、これを用いて「鋳写し母」を作ったわけだが、縮字の場合はこれが汎用母、背元の場合はこの鋳写し母が銅原母にあたる。

 「目寛」は遡及自体は割と容易で、形態が「四つ寶座寛」に近似している。

 問題は「見寛」で、これがどのような経過を辿って、最終型に落ち着いたのかがよく分からなかった。

 銭種のことではなく、「どうやって作ったか」という観点になる。

 銭種自体は、O氏は「恐らく四年銭であろうことは疑いない」と語ったが、変化が著しい。他銭座ではあまり見られぬ形態変化である。

 そもそも、この銭径で同じように使えたものなのかどうか。

 (ここでは省略するが、これには「重量換算」という要素が絡んで来る。)

 

 図1は八戸母銭を百六十枚ほど一括購入した際にたまたま入っていた。大半がいわゆる「ボーチュー背千」と「葛巻背千正様」だったので、前蔵主は千無背と思っていたかもしれぬ。

 だが拡大してみると、背千には存在しない型だと分かる。

 スキャナで撮影すると陰影が影響してか、目視した時と印象が異なる。

 そこで、デジカメで撮影すると、こちらは目視に近い姿となる。

 微妙な相違だが、寛前足を見れば、四年銭の系統だと分かる(図2)。

 既に書体変化が始まっているので、中様なのか小様なのかは考えさせられた。

 結論を記せば、小様の方であろう。

 

 難関はここからだ。

 「亀戸四年銭小様の鋳写し母」として終わるのか、あるいは「見寛」に関連するものと言えるのかどうかという点だ。

 「水永」(背元様)という銭種には、その前段階であろう「背元鋳写し母」が存在するが、「水永」の直接の親に当たる品(恐らく元刮去)が見つかっていない。

 かたや四年銭の系統であるこの「鋳写し母」と「見寛」との繋がりはどうなっているのか?

 

 図3、図4を見れば分かるが、製作はほぼ同じだ。金の配合も変わらない。

 問題は「面文の変化」に尽きる。

 銭径と共に面文がぎゅっと圧縮されたものになっているが、鋳造手法でここまで著しい変化が生じるだろうか。

 ここで目に付いたのが、見寛母銭の肌だ。

 八戸方面では、良質の硅砂が手に入らず、概ね山砂を使用している。

 山砂でこの肌は作れないのだ。

 

 ここからは推論を含む。

 鉄銭ならそれほど見栄えを気にせずとも良いから、山砂の砂笵を使用することに問題はない。実際、鉄一文銭は見すぼらしい品ばかりとなっている。

 しかし、母銭については、なるべく滑らかな出来上がりとならぬと、その後の処置にやたら手間が掛かる。

 『岩手に於ける鋳銭』では、栗林座では当百銭鋳造に際し、母銭の出来が悪かったので、「砂笵を固く焼いた」と記されていたが、そういう処置が出来るのも「良好な鋳砂があってこそ」の話だ。

 「肌が滑らかであること」

 「型が著しく縮小すること」

 「同時に意匠が歪むこと」

 これをひとつの手法で説明できる要素は「粘土型の採用」ということになる。

 粘土型の利点は「きれいな製品を作れる」ということだが、一方で「型が一回から数回で壊れる」という難点がある。回数が利かない。

 「繰り返し使える」という意味では、砂型に勝るものは無い。

 

 以上は推測であり想像に過ぎない。

 そこで、これを補足するために、実際に粘土型で銭を作ってみることにした。

 図5はその鋳造実験で使用した永楽銭だ。金属の安定度から言えば金を使いたいところなのだが、お金が掛かるので銀にした。媒介要因を極力減らせば、「型の質」以外のノイズを少なくすることが出来る。

 結果はこの通りだ。

 粘土型は砂笵のように火に焙って乾燥させることが出来ない。急速に乾燥させるとひび割れるからだが、水分を含んだままだと、今度は出来上がりに影響をもたらす。

 実際に「型が著しく縮小し、意匠が歪む」という事態が起きている。

 この銀銭は「鋳写しを繰り返した結果生じた変化」などではなく、普通のサイズの明銭をそのまま型取りに使い、「一度で生じた変化」になる。そうやって作ったものだから、議論の余地はない。

 

 この実験により、たまたまだが、「目寛見寛が何故あのように小さい銭なのか」ということへの説明が見えた。

 あれは作ろうとして作ったものではなく、効率よく作業をしようとして自然に選択した工程によって生じた帰結の一端だということだ。 

 

 そうなると、砂型鋳造を前提とした考え方は八戸(目寛見寛座)では通用しなくなる。

 繰り返し、「八戸銭で銭種分類を試みようとしても、何百種と分類が増えるだけで、さしたるう意味はない。枝分かれの分岐点だけで良い」と記して来たのは、そういう意味だ。同じ目寛、見寛と見なされる銭にも各銭ごとに微妙な違いがある。

 これは工程によってもたらされたものだ。

 

 さて、結論も簡単で、この四年銭鋳写し母は、亀戸四年銭から八戸見寛に至る中間段階のひとつに位置付けられ、事実上、「銅原母群のひとつ」であると見なすことが出来る。この場合、「一枚の原母から系統的に子が発生している」のではない。あくまで「原母群のひとつ」ということ。

 今のところ、中間ステップに該当するものはこの品だけと思うが、小さい銭径であるから、それと気付かずに持っている場合もある。

 目視や、十五倍くらいのルーペではそれと気付かない。私も十年くらいの間は見ていなかった。「珍銭探し」に気を奪われていた時期があったのだ。

 蔵中の千無背の母をもう一度点検すると良い。もちろん、輪側処理が目寛見寛座の方式に依っていることが大前提だ。 

 

 八戸銭は、鋳銭工程の面から見ると、まさに常識から外れている。

 銭の密鋳という点については、盛岡藩よりもかなり早くから始めらているわけであるが、それも飢饉の被害を最も被った地域であることと無縁ではない。

 飢饉が酷い時に、この地域では多数が餓死した。

 この劣悪な経済環境が、この地に目寛見寛を生成させたのだ。

 

注記)一発殴り書きであり、推敲や校正をしない。当然、不首尾・誤表記はあると思う。なお、四年銭の拓影は資料引用によるもの(ハドソン『新寛永通寶図会』1998)。

 

付記1)目寛見寛座は、藤八(または藤七)が二戸に開座したとされるが、至近の岩手町は砥石の産地である。浄法寺でも砥石を生産していたが、浄法寺との繋がりが見えぬので調達は岩手町からだろう。

付記2)以上は二十年位前に行き着いた話だ。O氏以外とは八戸銭の議論を交わしたことは無い。O氏が亡くなってからは、八戸銭について言及することも無くなった。

 「聞く耳の無い森の中では、音は存在しない」から、何を話そうがさしたる意味はない。収集界に鋳銭工程論者はほとんどいないのだ。

 例えば、「分類」の見地に立てば「背長」でやれることは少ない。現実に五十年以上もの間、銭譜に拓本一つか二つが掲載されたままだ。だが、大量の銭を鋳造しているにしては、「背長」は変化が小さ過ぎる。「それは何故か」と考えるだけで、山ほどの「やれること」が生まれる。

 当たり前のごくありふれた銭にも謎が溢れている。