◎めくるめく八戸銭の世界 その4 目寛見寛座の謎
古貨幣のジャンルの中で、目寛見寛座(藤八銭)ほど面白いものはない。
小さく見すぼらしい銭なので、目視はおろか拓本を採って拡大してもよく見えないから、これまであまり振り向かれることがなかった。銭種もせいぜい数種しか分類されて来なかったが、これは「無い」のではなく、「見ていない」せいだ。
改めて目寛見寛座の鋳銭を考えると、「なぜ」「どうして」という疑問だらけになる。
最初に疑問に思うのは「果たしてこれをお金として認めてくれたのか」ということだ。
図6は幕末明治初年頃に、実際に使用されていた鉄一文銭だ。
左から「公許の鉄銭座で作られた銭」、「一般通用銭を改造した母銭から作られた密鋳銭」、「八戸方面で作られた密鋳銭」となる。
まず目につくのは銭径の違いである。最左と最右では、1:0.6くらいの違いがある。
そうなると「果たして同じ鉄一文として受け取って貰えたのか」という疑問が生じる。
前述の通り、銅一文銭と鉄一文銭の間には一定の交換相場があり、それを定めるひとつの尺度として斤量が用いられていた。しかし、同じ鉄一文銭同士で、明らかにサイズと重量が違うのに、使用に際し差し障りがなかったのか。
同じ密鋳鉄銭でも、銅通用銭を母銭改造して作成したものは、それほど仕様に違いはなく違和感を覚えない。
偽札を作るのに、本物より小型の縮小判を作っても、すぐに見破られてしまうこと必至である。
それなら、何故こういう改造母経由ルートで作成しなかったのか。
目寛見寛類は、差し銭に混じっていることは少なく、多くはバラ銭の中に見つかる。
あるいは銅鉄交換用の俵結び鉄銭に間に挟んである。
私の私見では、「同等の価値とは見なされなかった」と思う。
今はまだ正解が分からないわけだが、こういうウブ銭の観察を通じ、ヒントが得られるかもしれない。そういう意味でも、「どこからどのように出たか」を確かめることは極めて重要なことである。
さて、ひとまず母銭の工法に関する観察に戻る。
図7の1)2)は目寛見寛銭母銭の製作を区分したものだ。
境界線の左右で、明らかに仕様が異なっている。3)その他、についても、地金の点で相違が見られる。
右側の銭を一目して、「焼けている」と見る人がいるが、焼け銭ではなく鉛、亜鉛の配合率が違うことで生じる変化である。鉛であれば盛岡や秋田天保の地金に近くなるから、亜鉛ではないかと見ている。亜鉛は劣化が早く、ボロボロになりやすい。
4)は右側の地金の違う銭を、製作の似た順に並べ直したものである。
いずれも、若干、厚手で、輪測が直立しているのは同じであるから、実質的な相違は金属の配合の違いによる。
砂目が右側に行くに従って粗くなっているのだが、金属そのものの性質なのか、砂の性質なのかは、現段階では分からない。
鋳銭は短期間のうちに一斉に行われるから、「ひと吹き」で一定枚数を作る。母銭を製作するのに、何段階かに分けて吹いたか、あるいは、別の「手」が吹いたということになるのだろう。
この中の「背一様」が目寛見寛座のものと見なすことが出来るのは、輪測が直立していることと、この金質による。厚さは極端に厚くなってはいないが、それも原初形態のひとつだったからではないかと思う。
ここでようやく冒頭の疑問に戻る。
この系統の銭種を、何故ここまで小さくしたか、あるいは小さくなったのか、という疑問だ。
元々、素材としたのは一般通用銭で、目寛は座寛、見寛は四年銭小様と目される。この他にも、縮字等、鋳写しを試みられた銭種が幾つか散見出来る。しかし、原母相当の鋳写し母は見つかるのだが、これが目寛見寛に到達するまでには、通常の技法を使う限り、何段階かのステップが存在する筈である。
ところが、この中間段階の品がほとんど見つからない。これは何故か。
改造母をそのまま汎用母とするには、形態が不揃いとなり出来高を予測することが難しい。そこで、それを補正するために、均一の母銭を作った。これは疑いない。
では目寛見寛に至るステップが何故無いのか。
これへの答えのひとつが、「母銭製作の際に粘土型を使用した」のではないかというものだ。
この地方では良質な鋳砂が手に入らない。密銭は大罪であるから、大っぴらに発注するわけにも行かない。山砂では鋳肌が見すぼらしくなり、通用銭ではまだしも、母銭を作るのに支障を来たす。
母銭製作の際には、鋳砂に粘土汁を混ぜ、これを焼き固めることで滑らかな鋳肌を作り出すのだが、そのための砂を持たなかったのだ。(ちなみに、母銭手法の際のこの通常技法を、新渡戸仙岳は「陶范」と称した。)
鋳砂を使わずに「鋳肌を平滑にする」次善の策が「粘土を固める」という手法で、これは使用可能回数が1回から数回程度となる。大量鋳銭には向かないが、母銭限定なら小数回で済む。
もちろん、まだ作業仮説の段階であるが、目寛見寛類は、このような銭を「作るべくして作った」のではなく、「結果的にこのような仕様になった」のではないかと思われる。
粘土型とほぼ同様の意味を持つ石膏型で実験してみたが、模りをして、母銭をすぐに外し、乾燥させた銭型に溶銅を流し込んで作成すると、一度に15%程度銭径が縮小した。
鋳写しにより銭径が縮小する理由には、よく金属の凝固縮小率が挙げられるのだが、これには、「常に砂型を使用する」ことが前提となっている。しかし、「型づくり」の手法を変えると、「型自体が縮小する」という側面を無視出来なくなる。
藤八は葛巻での鋳銭を経験していたが、八戸藩が企図する座銭と違い、資金が乏しく、道具もそろわぬ状況である。そこで、小人数で最大効率の出来高を上げるために、自分なりに工夫をしたのだが、その結果として、こういう銭が生まれたのだ。
要するに、原母とした鋳写し母から、汎用母に至る「中間のステップ」は無く、一発で目寛見寛母銭に至ったのだろう。
註)「汎用母」:大量鋳銭にあたり、通用銭製作のために使われた母銭。数千枚は必要である。これに対し原母は鋳銭の規模にもよるが「百枚から数百枚作成する」と言われている。もちろん、銭座ごとに状況が違うので、不確かな話ではある。
さて、ここまでが、十五年前くらいにO氏と検討した内容である。
O氏以外には、この銭種に興味を持つ人がいなかったので、話題に上ることもなかった。
この他では、次のような検討事項がある。
・軽米大野と葛巻周辺では、鉄の素材が若干違うこと。これは硫砒鉄鉱のパーセンテージに関連していると思われるが、まだよく分からない。
実際、軽米町には江戸時代の鉄製の「懸け仏」が残っているが、表面の味わいが違う。
・葛巻では、出来銭に対し、「柿の渋」を、「使用感のある色合いにする」「急激な腐食を防止する」といった目的で使用した。小規模な密銭ではこれをしないので、微妙な違いが生じることがある。鉄錆が強く入ってしまえば分かり難いが、流通銭の中には、あまり錆びず黒い表面色を保つものがあるのだ。
こういうことは、古貨幣の収集に直接的に関わらぬ情報ということもあり、地元の収集家でも研究している人はほとんどいない。
私自身、興味を持たぬ人に説明しても意味がないので、これまでO氏の他に話題にした人はいない。
さて、これら総てが宿題となる。いざ分け入ってみれば、未開拓ということもあり、心底より楽しめるジャンルだ。しかし、「希少銭を入手して自慢したい」程度の認識では、半年も持たないし、コレクションにも何ら説得力が生まれない。ミッシングリンクが多々あるので、そこを詰める必要もある。
ただし、根性を入れ研究すれば、「最初に解明したひと」になれる可能性のある分野であることは疑いない。繰り返し書くが、八戸は「分類」手法はまるで通用しないので、それに対応したレトリックを学ぶ必要がある。
さて、幾つか説明がもれた部分について言及する。
参考図1)は目寛見寛座の「水永」と「背元」の背面である。背元には「元」字の痕跡が見えるのだが、「水永」もわずかに痕跡が残っているのではないかと思う。
「水永」が希少品であり人気品であるため、類例の検証が出来ず止まっているが、もしあれば「水永」でなく「背元様(または背元手)」という解釈で良くなる。
面側の永字を観察すれば、さらに共通点が見つかるかもしれぬ。
参考図2)は、「四年銭鋳写し母(見寛の原母)」の直接的な鉄銭の有無を探したものである。中央がそれではないかと思っていたのだが、どうやら舌銭小字無背ではないかと思う(残念)。なおこの銭径では、舌千小字か広穿細縁、見寛の三通りしかない。
参考図3)は、この座で最も変化の多い「小字広穿細縁」の一種である。一般に「仿鋳背千」と見なされる中でも、最も小さく、さらに変化の多い銭種である。
穿内に刀が入っていることに加え、磨輪により細縁となっているので、それと分かる。
面文の変化が大きく、「分類」を始めても楽しめる銭種で、当品は通頭が「マ」となっている。葛巻銭には欠損により通頭がマに見えるものがあるから、それを台にして変化したものだろう。広穿細縁はともかく、マ頭通はついぞ母銭を見つけられなかった。
見ての通り、鉄銭でも割と状態のよい品が多いので、これのみを探しても面白いテーマになると思う。
目寛見寛座は八戸方面銭の中では、鉄通用銭の選り出しが容易であるのだが、これは専ら「サイズが全然違う」ことによる。
どれもこれも見すぼらしく、つまらない銭種のように思えていただろうが、それは単に「貴方が見て来なかった」だけである。
ま、興味を持ち愛着心を覚えられるのは、やはり白河以北の人だろうと思う。
追記)確か「マ頭通」は他にもあったことを思い出したので、探してみると、2枚のうち1枚が残っていた。地元収集家のコレクションを買い受けた時に入っていた品だ。
きちんと「葛巻鋳マ頭通」と書かれていたから、「仿鋳背千」以上のかなり詳しい認識があったのだろう。穿に加工が無いので、実際、葛巻鷹ノ巣のものである可能性もある。この2枚でも少し書体が違う。
銭種が立つことは疑いないが、その後は「この収集家が発見した」と付記すべきであろうからホルダーを取り置いてある。おそらく地元にはこの筆跡を見たことのある人がいると思う。
単純に「新しい銭種を探す」という意味でも、八戸銭はまさに「お宝の宝庫」なのだ。
追記2)さらに背久二との比較を追加した。「小さく厚い」ことが歴然である。
こちらもマ頭様だと思っていたが、拡大すると「コ頭」のようだ(目寛見寛座背千)。しかし、千字の痕跡は大字のよう。
ことこの座の銭はバラエティが数限りなくあるようだ。
(いつも通り、一発殴り書きで推敲も校正もしていません。気が向けば続伸します。)