日刊早坂ノボル新聞

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◎我が師匠・駒田信二を偲ぶ

我が師匠・駒田信二を偲ぶ

 部屋の片づけをしていると、師匠・駒田信二の本が出て来た。

 『私の小説教室』とあるが、まったく記憶にない。たぶん、師匠が亡くなった後に、ふと思いついて書籍を求めたのだろう。だが、ずっと積読だった。

 

 師匠は大学では中国文学の先生で、夜間学部の方で講座を持っていた。内容はもちろん、中国文学の講義なのだが、『聊斎志異』すなわち清代の怪異譚の話だった。

 怪物やバケモノが出て来る物語なら私にピッタリだから、学部を超えて聴講に行ってみたのだ。ま、学部前半の私は混迷の時代で、生活の柱自体を見失っていた。難民キャンプに行ったり、アジアを放浪したのも、いわゆる「自分探し」だった。

 大学の講義にはどれもこれも興味を持てず、ウンザリした。学校に行かずバクチばかり打っていた。

 それでも人並みの「かたち」は整えて置く必要がある。

「優」の数が不足していたから、形式的にそれを補うべく他学部の講義も受けた。他学部の聴講であれば、受講科目数の制限が緩く、頭数が揃えられる。単純に「優が何個」と称すなら母数を増やせばいいし、全体の科目数など誰もチェックしない。

 私は古文漢文が好きで、高校時代から割合、中国の古典や説話文学などに目を通していた。予備知識があれば、「斜め聴き」でも対応できる。

 

 午後六時をかなり過ぎてからの初回の講義には、沢山の学生が出ていた。五十人ほどで一杯になる教室に二百人近くが押し寄せたのだから、教室はぎゅうぎゅうだし、廊下の窓から覗き見る学生までいたほどだ。

 だが、「出席点呼を取らぬ」「評価はレポート提出」で、先輩らの話では「概ね優をくれる」とのことだったので、二回目には学生が半数になった。

 三回目にはその半数で、学生が来なくなった。

 最初の内は学生数が多く、その学生の私語が酷くて、講義がほとんど聞こえなかった。このため、教室では最前列に座ることにした。

 先生はほとんど講義らしい講義はせずに、前の学生たちに向かって世間話をしていた。

 「缶ピ(缶入りピース)を一日にひと缶吸う」みたいな話を延々とするのだ。

 本来の講義など最後の十五分か二十分だけで、それも高校の授業のような外形的な出来ごとの羅列(箇条書き)だった。

 

 二学期が来る頃には、学生がかなり減り、教室の中に空席が目立つようになった。中国のバケモノ話のさわりだけをほんの少し触れるだけだ。

 秋が来て冬が来ても同じだった。

 気がつくと、講義を受けに来るのは十人かそこらになっていた。夕方に始まり、終わるのが夜中だから、コンパで忙しい学生たちにはちと遅すぎる。

 

 先生が豹変したのは、講義が残り五六回になってからだった。

 その頃残っていたのは、私のように怪異譚に思い入れのある者だったのだろう。先生の言葉に反応する。

 それから最後の回までは、まさに圧巻だった。

 人生を賭けて打ち込んで来たものだから、そのエネルギー、迫力たるやもの凄かった。

 大学の講義で、内容を今も記憶に留めている科目は、先生の最後の数回分になる。

 リポートでは、東南アジアの怪物の伝説と、中国の『聊斎志異』、日本の『宇治拾遺物語』の説話との類似点について書いたが、すごく良い点をつけて貰った。

 先生はきっと殆どのリポートを読まなかっただろうから、「読んで貰えた」ことで自信を得た。

 この時に「教員が知らぬことを書けば、評価してもらえる」ことに気付いた。新しい知見に触れることが、その道のプロにとっては刺激になるらしい。

 これがヒントになり、専門科目からはA+を貰うのが容易になった。よって、学部の前半はほぼ60点台だが、三年からは90点が並んだ。総ては先生のおかげだ。

 

 学部三年の終わり頃には、私は自己回復し、精神面のバランスを取り戻していた。そのきっかけは駒田先生の『聊斎志異』だったから、通常の子弟関係がなく、個人的交流もなかったのに、はっきりと「師匠だった」という意識がある。

 何せ、「缶ピを日にひと缶吸う」人だ。

 俄かには信じ難いが、私とは「究極の偏屈者」という点で共通点が多い。

 

 今思えば、先生は処世のために大学で教鞭を執っていた。「講師」の身分があれば、少なくともどこでも出入りできる。小説家は中央官庁のゲートで止められるが、大学の教員は身分証をチラ見するだけで通れる。

 講義を維持するには、一定の聴講生数が必要だが、学生の大半は目的意識も無くボンヤリと座っている。講義を聞かず私語をするから、声が届かない。

 先生は最初からそれを見越して、生業のために学生を取るが、半年はその大半を教室から追い出すために、何もしなかった。

 それでも残る学生は、何らかの熱意や知識を持つから、そういう学生だけになったところで、自分本来の講義を始めたのだ。

 要は最後の数回は先生のゼミだった。

 駒田先生は筋金入りの偏屈者だった。

 何事も徹底しているとスッキリする一方、敵も増えるわけだが、そんなことはどうでも良かっただろう。

 「人生観が自分に似ている」と実感するが、私は大学で講義することについぞ意義を見出せなかった。

 

 今、師匠・駒田信二に伝えたいことは、「あの頃は先生の幽霊やバケモノの話を聴講したが、今は本物を間近に見ている」ということだ。

まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。

 

 人生で目的意識を持って小説を書いたことは一度も無い。

 小説家など目指したことも無い。このため、先生の文章読本には目を通さなかった。

 四十台から病気で入退院を繰り返しているが、ベッドに寝ている時間が長いから、仕方なく雑文を書いたまでのこと。それが積み重なっている。

 ちなみに、卑下して言っているわけではない。偏屈者は「片手間でも入魂すれば必ずやれることがある」と思っている。その辺は博打打ちだ。

 「一片の短編ひとつで勝者になれる」ジャンルは、私には合っている。この場合の「勝者」とは売れることではなく、グラグラと読者の人生の根幹を揺さぶることだ。

 じきに泣かせてやるからな。

 

 今はまた、暫くの間、何も出来ぬ日々が続くから、先生の本で勉強しようと思う。と言っても、今は文字が読めぬので目次や小見出しが頼りになる。

 旧盆が近くなるせいか、この時期は様々な人の思い出が蘇る。

 「思い出し、それを語る」ことこそがご供養になるわけだから、感謝の意を込めて、時々、昔語りをしようと思う。

 今は私があの頃の先生の年齢に近くなった。