日刊早坂ノボル新聞

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◎駒田信二先生の思い出

駒田信二先生の思い出
 駒田信二先生は、中国文学の研究者で翻訳家です。『三国志』など著書が多数あります。
 大学時代に、文学部で非常勤講師をしておられたので、私は2年生の時に聴講しました。
 科目は「中国文学」で、主に『聊齋志異』の解説でした。
 『聊齋志異』は怪異譚を集めたもので、幽霊や妖怪だらけ。私にはピッタリです。

 先生の講義は40人くらいの教室だったのですが、その科目を選択したのは250人くらいでした。
 初回は当然、学生が教室に入り切れません。
 廊下にも学生が溢れ、窓から覗いて見る始末です。
 それほどの人気講義だったのも当たり前で、先生は「リポートを出しさえすればAをくれる」「出席を取らない」ことで有名でした。
 当然ですが、中国文学に興味がまったくない学生も沢山来ます。
 初回は後ろの席では、声高に私語をする学生ばかりで、講義になりませんでした。
 先生も、「こんな感じです」とスケジュールを知らせると、それで終わりました。

 3回くらいは「様子見」だったせいか、それなりに学生が出ていたのですが、すぐに出席者が減り始めました。「大丈夫」だってことが分かったからです。
 その上、先生は講義らしい講義をせず、始まって30分くらいは必ず無駄話をしました。

 「私は缶ピースを毎日ひと缶吸うんですよ」
 ゲゲ。両切りのピースを百本吸ったら、気持ち悪くなってしまいます。で、そこから煙草の話が30分です。
 講義があまりに詰まらないので、毎回、ごそごそと学生が減っていき、夏には教室がスカスカに、秋には十人くらいまで減ってしまいました。
 その頃、先生は教室を見回して、ひと言呟きました。
 「ちょうど良くなって来たかな」
 小声でしたが、私はいつも最前列に座っていたので、丸聞こえです。

 先生が真面目に講義をしたのはそれからでした。
 これが面白い。
 自身が深い関心を寄せ、エネルギーを注入している事柄について話すので、自然と熱が入ります。
 幽霊の世界は実に楽しかったです。
 12月か1月の講義終了の時は、既にリポートの提出が済んでいましたので、出席者が5、6人だけでした。とりわけこの回は、本当に躍動感がありサイコーでした。

 私は大学に入った後、様々な壁に当たって苦しんでいたのですが、「真面目に学ぼう」と思い直したきっかけは、この講義でした。
 先生はおそらくリポートを読まないだろうと思っていたのですが(200人なら当たり前)、講義中に「新しい知見があれば読む」と言われたことを記憶に留めていたので、中国文学とはまったく関係ない素材を使ったように思います。

 後に、自分が講義するようになった時に、先生が何を考えていたかが分かりました。
 学生を受け入れ、簡単にAをくれるのは、営業のためです。登録数が少ないと、大学には居づらくなってしまいます。ところが、そうすると聞く耳を持たない学生が教室に沢山入り、講義を壊してしまいます。で、これを去らせる。
 あとに残ったのは、既に自分なりに中国の文学に関心がある学生なので、そこでレベルをがっと上げて、自身のやりたい講義をしたのです。

 文筆業だと、有名作家を除けば、世間的な身分が無いのと同じです。そこはひとまず大学に籍を置くと、世間体的に動きやすくなります。
 講師の給料など、ばからしいくらいの低報酬ですが、その一方で、大学の教員は、どこに入ろうとチェックされません。

 私も「奇譚」シリーズや「情夜」シリーズなど、幽霊や妖怪が出る話を書きますが、今思うと、これらは総て駒田先生の影響によるものです。そして、それは「あの最後の回」の影響と特定しても間違いではありません。

 先生はそれから十年後の90年に80歳でお亡くなりになられたとのこと。
 1年間聴講しただけで、個人的なお付き合いはないのですが、それでも先生は私の恩師の一人なのだろうと思います。
 先生の作品は、幾人かの運命を変える力を持っていました。
 やはり、「知は力」であることを痛感します。