◎夢の話 第1K81夜 百鬼夜行
九日の午前二時に観た夢です。
我に返ると、山の頂上付近に立っていた。
周囲は濃霧に覆われ、十メートル先もよく見えぬ。
「天気が良いようでも、山の気候はすぐに変わる。五分でこの状態になったりするな」
降りるのが大変だが、ま、この場所には記憶がある。
姫神山の頂上付近だな。
「ならこれは夢だ。俺は夢の中にいるのだ」
何故なら、今の俺は山になど登れない。平地を一キロ歩くことが難しくなっているのに、山登りなど出来るわけがない。
ここにいる夢は時々観るが、大体は「お師匠さま」が現れる夢だ。
「お師匠さま」は五十五歳くらいの男性で、たまに夢に現れては、俺の迷いを解決してくれる。
理路整然と俺の置かれた状況について解説し、教え諭してくれる存在だ。
だが、夢だけに、記憶があやふやだから、そろそろ、お師匠さま語録を文字に落とす必要があると感じる。
「お師匠さまは言われた。霊は怖ろしいものではない。怖ろしいのは人の心の中の欲心である。霊の本質はその欲心なので怖ろしく見えるだけ」
みたいな。
語り口は論語調で良いと思う。
気が付くと、少しずつ霧が引き始めていた。
てっきり、師匠さまが現れて、悩み苦しむ俺に道を示してくれると思ったのだが。
霧は山の上から麓の方に少しずつ下がっていた。
すると、下の方に人影が見え始めた。
登山客か。いや、こんな霧の中を上って来る者はいない。霧に巻かれ道に迷ったら、即座に遭難だ。
だが、霧が引くと、人影の全貌が見え始めた。
「おお。すっげえ大勢だ」
山裾を覆うほどの群衆がいて、その群衆が山の上を目指して上って来ていた。
何だか嫌な感じ。鳩尾がずしっと重くなる。
もしかすると、あいつらは・・・。
先頭が百㍍ほどのところに近づくと、人の姿が見え始めた。
「ああ、やっぱり」
異形の者たちだった。白い幟旗を掲げ、傀儡のように身を振りながらひたすら上を目指して上って来る。
あれは「亡者の群れ」で、醜い心根を持つ死者が変じたものだ。死ぬと、その者の持つ心根がそのまま外見になるから、少なからぬ死人がバケモノの姿に変じる。生きているうちには、心根の醜さを肉体の殻が覆い隠してくれるから、外見では分からない。だが、死んだ後にはその殻が無くなり、内心が総て外見に現れるのだ。
生きていた時に培ったものは何ひとつ反映されず、単に「こころ」だけの存在になる。
で、大半の人間は「よりよい死に方」など考えることも無いから、いざ死ねば亡者になる。。
そしてその中には、ねじくれた心を持つ者がいるから、あんな風に魑魅魍魎的な外見に変じてしまうわけだ。
「亡者の群れと言うより、百鬼夜行そのものだな」
昔の人の凄さは、カメラなどの装置を持たぬのに、きちんと「あの世」の存在を察知し、それを記録に残していることだ。俺と同じように、あの世の存在を身近に感じている者がいて、断片的にせよそれを実際に見た者がいるわけだ。そうでなくては、事細かに様子を記すことなどは出来ぬ話だ。
俺は、子ども時分には、岩手の馬場という地に住んでいた。馬場は昔、「馬場街」という名で、山伏の修行で姫神山に向かう者たちが休憩のために立ち寄る宿場のような集落だった。
個の馬場の村外れには、甚平坂という坂がある。
五歳くらいの時に、深夜に尿意を催したのだが、トイレは一階に降り、さらに一旦外に出た場所にあった。真っ暗な中を三十㍍も進まねばならぬので、子どもには怖い。
おまるも置いてあったが、時には二階の窓を開け、国道に向かって用を足すことがあった。
五歳のその時にも、国道側の窓を開けて用を足したのだが、その折に何気なく甚平坂のほうを見た。街灯が点々と点いていたから、割合見通しが利いた。
すると、その坂を上って来る隊列があった。
見たところ数十人だが、後ろの坂下にも長く続いていそうだ。
「こんな夜中なのに何だろ」
目を凝らして見ると、隊列の中に幟旗が幾本も立っていた。白い幟旗で、そんなのは葬式の時にしか使わない。
「あれは葬式の行列だ」
だが夜中の二時か三時頃の話だ。葬列が道を通るわけがない。
俺は何だか怖ろしくなり、すぐに自分の部屋に戻って布団の中に潜った。
今は総てが分かるが、あれは葬列じゃなく「亡者の群れ」で、すなわち百鬼夜行だった。
その後、幾度となく夢を観るようになったが、その起点がそこで、夢ではなく直接それを見る経験をしたからだった。
「て、ことは、俺の人生を通じて、俺はあいつらに関わり続けているわけだな」
おまけに最近では、きちんと写真にも写りやがる。
普通の幽霊なら可愛い方で、アモンやらイリス、猫わらしに至る異形の者が自己の存在を主張しやがる。
こんなのを他の誰が信じるのか?
他の者の写真には、煙玉が写ることさえ珍しい。
だが、俺の場合は、何らかの異変があることの方が多い。
煙玉や霧(幽界の霧)は、のべつまくなし。幽霊らしき人影や、バケモノが写る。
景色がぐねぐねと曲がって映ることも、他の者にはほとんどないようだ。
(「ようだ」というのは、俺には写真に異変がないことの方が少ないからで、他の者がどうかは知らぬということ。)
結果的に、俺は被写体になるのを避けるようになった。
ま、持病があるので、顔色が青白く、死人に近い表情をしている。
他人が俺を眺めた時に、「何とも言えぬ不快感」を覚えるのは、すぐ後ろに亡者やバケモノちがいるからだ。
だが、それは誤りだ。
俺はそのバケモノたちを留め置く立場にある。
俺がバケモノたちの先頭に立ち、統制を取っているから、あいつらが誰彼構わず取り憑くことをしないのだ。
もちろん、そんなのは誰も分からぬし、知らずにいてよいことだ。
ひとには宿命のようなものがあり、それを他人がどう捉えようがどうでもよい。
自分なりに務めを果たすだけのことだ。
俺には俺の戦いがあるから、傍に寄らず無視してくれればそれでよい。
俺の方には生きた人間への興味はない。
群衆の姿が見えて来る。
「前は三十万人くらいだと思ったが、今はそれより多い」
東京競馬場に満杯で十万人の規模だから、五十万人くらいか。
「愛と平和を掲げる者のところに行けばいいのに、何故俺を頼る」
ま、答えは明白だ。
俺が下世話な人間で、ひとの心根の醜さを見通し、それを認める者だからということ。
要はあの「バケモノたちに最も近い立場」だということだ。
かつ、まだ生きている。
ここで覚醒。
「どんな者でも救済する」のが不動明王の理念で、そのお不動さまは当家の守護神だ。
なお、もちろん、不動明王のまとうひとのかたちは方便で、実際には理念上の存在だ。
なるほど。半世紀に渡り、自分の周りで起きて来た出来事の総てが繋がっていたということだ。
数百年前には、二千人前後の信者を率いて修行をしていたが、今は数十万の亡者たち。
それも、今の人が信仰を持たず、無防備に死んでいくようになったということだと思う。
「死は終わり」だと思う人が大半で、その先のことを考えない。
死んだら驚くことになる。
だが大丈夫。百万人の規模でも隊列が崩れることはないから、いつでも受け入れ可能だ。