日刊早坂ノボル新聞

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◎百鬼夜行を見た話

百鬼夜行を見た話

 子どもの頃に「百鬼夜行」を見た件 について、これまで断片的に記して来た。

 今回はきちんと詳述しようと思う。

 

 あれは、たぶん、最初の東京五輪の年のことだ。

 私はまだ幼稚園児だったと思う。

 伏線はその夏の出来事だ。

 私は岩手中央の馬場という地に住んでいた。この馬場は昔、馬場街と言って、奥州道中から姫神山に向かう西側の道への分岐点になっていた。姫神山には修験道場があり、修験者が多数行き来していたから、藩政時代には宿場のような機能を果たしていたらしい。だが、維新後はすっかり寂れてしまった。

 ただ昭和三十年から四十年台でも、山の麓には百人近い修験者が修行していたようだ。家は萬屋だったから、裏口にはひっきりなしに托鉢僧がやって来た。

 

 この夏に集落のお年寄りが亡くなり、家の前をその葬列が通った。

 葬列は国道を南下し、姫神山に向かう分岐点で東に曲がるのだが、そのすぐ先に集落の共同墓地があった。昭和四十年台の初め頃まではまだ土葬で、村の男衆が仏を入れた棺桶を担いで、山の上にある墓地まで運んだ。

 葬式の隊列はかなり長く、家族親族から近隣のものまで五十人は並んでいたと思う。

 白い幟を立てて、頭には何やら被り物をした人たちが念仏を唱えながら、道を進んだ。

 その時、近所に住む同級生のヨシコちゃんは「棺桶から水はぽたぽたと滴っていたのを見た」と言う。

 夏の暑い盛りだけに、仏に氷を抱かせ、腐敗を押さえたのだと思う。

 だが、ヨシコちゃんは「あれは仏さまから流れ出た脂だ」と言って聞かなかった。

 我の強い女児だったので、あえて否定しなかったが、その時の「仏さまから」という言葉が強く心に残った。元々、葬列だし、快いものではない。

 

 秋になり、五輪の熱狂を国中が堪能した。

 その熱狂がまだ収まらぬ頃に、私は再び葬列を見た。

 あれは十月の終り頃だったと思う。

 私は真夜中に尿意を催し、すっかり目覚めてしまった。

 だが、トイレに行くには、二階の蓋を開けて階下に降り、居間と台所を抜けて、外に出なくてはならない。その頃の便所は家の外に建てられていたからだ

(ちなみに、当時は二階に上り下りする階段には、上から蓋が出来るようになっていた。強盗避けらしい。)

 幼稚園児にとっては恐怖の瞬間だ。暗闇が怖くてトイレに行くに行けない。

 そういう時のことを考えて、普段は、母が二階の廊下の端におまるを用意してくれていた。

 おまるがあれば大丈夫なのだが、その夜はたまたまおまるが出ていなかった。

 こういう時の事も母は気が回り、いつも「どうしても我慢出来なかったら、窓を開けて外にしなさい」と言っていた。幼児の小便だし、さした汚くはない。夜中なら前の道を通る者はいない。

 この夜はどうしても我慢出来ず、窓を開けて国道に向けて小便をした。

 真夜中なので、道を行き交う車も無く、外はしんとしていた。

 涼しい風が顔に当り心地よい。

 小便を済ませた後、私は何気なく道の先の方を見た。

 北側には、百㍍先に甚兵衛坂という坂がある。私の実家の方が高所で、その坂は下りだから、坂の先の方は見えない。

 だが、その坂に、ちょうど地面から湧き出るように人影が現れた。

 正確には、最初は幟旗の上の方が何本か突き上がり、次に人々の姿が湧いて出た。

 国道と言っても、三十㍍置きに立つ電柱の街灯しかなく、その街灯も裸電球ひとつだったから、詳細には見えない。

 だが、隊列の様子は、夏のあの日に見た葬列と同じのような気がした。

 皆が二列に整然と並び、その中には幟旗を立てている者がいる。

 

 「あれは葬式の行列だ」

 子ども心にそう思ったのだが、真夜中にそんな葬列が練り歩くはずがないことは幼児でも分かる。

 私は何だか怖ろしくなった。

 だが、どうしたことか、その葬列から目を離すことが出来ない。

 隊列が近づいて来るのをただじっと見守っていたが、それがついに隣の電柱のところまで来た。

 そして、先頭が裸電球の灯りの下に入ると、そこに見えたのは、どう見ても人間ではなかった。

 傀儡のようなものが居り、あるいは目玉の異様に大きな者がいた。

 口が顎まで避けた蛇顔の女もいる。

 私は思わず、「あああ」と叫び、腰を抜かした。

 その勢いで、窓の桟から廊下に落ちたので、そこで我に返り、自分の布団まで走って行き、その中に飛び込んだ。

 布団の中で固まっていると、何だか足音が聞こえる。ざくざくざく。もの凄い人数の足音だった。

 その音を聞きながら、さらに縮こまっているうちに、眠り込んでいた。

 子どもだけに、ただの夢か妄想だったのかもしれぬ。

 それが実体験なのか、夏の葬式の記憶が混濁したものなのかは、今では判然としない。

 

 ここまではただの幼児期の思い出話だ。

 だが、話はそれで終わらない。

 その体験の後、私は時々、あの行列を夢に観るようになった。

 隊列をなして歩いているのは、とてもこの世の者とは思われぬから、たぶん亡者だ。

 それが、遠くの方から私を目指して歩いて来る。

 そんな夢を観るようになった。

 季節ごとに観ていたから、これまで百回と言わず、同じ夢を観て来た。

 

 ある時には山の中、ある時には海岸通りの岬の道に私が佇む。

 すると、道の先の遠くの方から、亡者の行列がこっちに向かって歩み寄る。

 最初は一キロくらい遠くにいるのだが、割合、足の運びが早く、すぐに顔の見える位置まで近づく。

 その顔を見ると、いずれも怖ろしい表情をした異形の者たちだ。

 私は驚き怖れ、一心に逃げる。

 亡者の群れが遠くにいるうちに目覚められたのは四十歳くらいまでで、それからは、わずか数十㍍のところまで近づくようになった。

 

 一度は、夢の中で家人と一緒に逃げたが、いよいよと近まりそうになった時に、目前に不動明王が現れ、亡者たちに火炎を吹いて、遠ざけてくれた。

 それが近年になり、ついに亡者の先頭に追い付かれそうになった。

 夢の中では、亡者を避けるために、道の脇の物陰に隠れたり、土手の下に身を潜めたりした。

 

 ま、どれもこれも、たかが夢の話だ。

 最近まではそう思っていた。

 

 それが「必ずしも夢の話ばかりとは限らない」と思うに至ったのは、令和元年の頃からだ。

 この年は、あの世との交流が多く置き、毎月、写真に幽霊が写った。

 そして、十月のある日には、ついに亡者たちに体を掴まれる様子が画像に残った。

 十月二日のこの画像がその瞬間のものだ。

 私の左肩には小柄な女が取りついているし、右からは顔のない男が私の胸に手を差し入れている。

 そしてその男の後ろにはムカデ行列のように、沢山の人影が続いている。

 ちなみに、左の女は顔と腕の一部しか写っていないようだが、女は真裸でいる。

 何故それが分かるかと言うと、この女を見る度に、私は自分の左の肩甲骨に裸の乳房が当たっている感触を覚えるからだ。尖った乳首の先がくりくりと当たる。

 恐らくは、死んだ後も情欲に囚われたままでいる女の亡者だろうと思う。

 

 そしてこの年から始まったのは、幽霊だけではなく、化け物が画像に残るようになったことだ。

 蜘蛛のような狼顔の化け物や、蛇の体に女の頭がついた妖怪らしき姿が薄らと画像に残った。

 こいつらもどうやら亡者の隊列の中にいるらしい。

 

 そして、今起きつつある事態に気づいたのは、最近のことだ。

 子どもの頃のあの体験と、令和元年からの異常な出来事は全部繋がっている。

 「亡者の隊列」は、後ろに数十万の者が連なる規模だ。これは幾度も夢で観た。

 その中には幽霊だけでなく化け物もいる。

 結論は簡単で、今、私は「百鬼夜行の隊列の先頭に飲み込まれようとしている」ということだ。

 

 一年前と今でも決定的な違いがある。

 それは、今ではいつ何時も、「傍に誰かがいる」気配があることだ。

 現に今現在も、私のすぐ傍に立ち、私を眺める者の気配がある。

 何せ、今や気を許すと、ごく普通に亡者たちが後ろに立ち、私の体に触れて来る。

 私の場合は、「そう感じる」だけでなく、実際に画像にも残る。

 

 令和元年に起きた事態の意味を悟ってから、百鬼夜行を退けるための真言祝詞)を暗記し、壁にも張ってある。一時は暗記し、何時でもそらんじることが出来たのだが、最近になり、最初の一言も出て来なくなった。これはもはや亡者の先頭に立っているということではないかと思う。

 再び不動明王が現れて、救済してくれるのかどうか。あるいは、私も百鬼夜行の一員となり、さらに仲間を増やすべく働くようになるのか。

 この先どうなるのかは見当もつかない。

 

 これが私と百鬼夜行の間にあるストーリーだ。