◎亡者の群れ(609続き)
最初の画像のガラス戸の境目を接合し分かりよくすると、最初に子どもの姿がはっきりと出る。こうすれば見える人は見える。
これに気が付くのは、私の脚が消されているからで、通常、こういう場合は「前にいる」ということ。
ちなみに、私は可視波長域が広いので、これくらいになると原色で見える。
波長域を子どもに合わせると、今度は手前に女がいると分かるようになる。
結局、私は「亡者の隊列の中にいた」ということだ。
すぐにそれと悟るのは、こういう情景と私の立ち位置をこれまで幾度となく夢に観させられているからだ。
その夢は「私が数十万もの亡者の群れを率いて、どこかに進む」という内容だ。
進行方向の先には不動明王が見えるから、亡者たちを救うために先導しているのだろうと思う。
(繰り返し記すが、不動明王は理念であって、その姿のかたちが存在するわけではない。あくまで主観的表象だ。)
仮に死後の行く先を三途の川に例えると、三途の川が「霊界」との境目になる。そのかなり手前に「トンネル」か「死出の山路」があるのだが、これが生者と死者の境目になる。そしてそのトンネル(または山路)と三途の川との中間が「死後の残存自我」、すなわち「幽霊」のいる「幽界」になる。
(「トンネル」「死出の山路」「三途の川」は「不動明王」と同じく主観的表象であり物的存在ではない。その当事者によって見え方・受け止め方が異なる。)
亡者たちは川を渡れずに中間の世界である「幽界」に留まっているのだから、川を渡らせてやればよい。そのためには、生前の執着を落とす必要があるのだが、それが可能になるまで、亡者は繰り返し記憶と感情を反芻する。
この隊列が数十万に及ぶのは、なかなか執着心を捨てられぬ者が多いからだ。
問題は、亡者たちは「溺れる者」と同じで、現状が苦しいからひたすらしがみついて来ることだ。
うっかりすると、先導する者も絡め捕られてしまう。
この数週間、私が嵌っていたのはその状態だった。
最近、痛感するのは、幽界の「霧の中」に蠢くものを、自身と同じように見取る人が少ないことだ。
反応の仕方でそれと分かるが、数百人が同じものを見て、「かもしれぬ」と思う人は五六人らしい。もちろん、その場に立っていないのだから、当たり前ではある。
視覚的要素よりも、聴覚や気配の方が相手の存在を強く感じる要素になる。
この五六人の人たちを除く他の人にとっては、私の語る話など「死に掛けた者の観る妄想」に過ぎぬことになる。
もちろん、それでよい。
いざこういう領域に立ち入ると、すごく厄介な問題が起きる。
その五六人にとっては既に「妄想」ではなく「目の前の現実」としてあるのだから、逃げ道は無い。そういう立場の者が受け止めれば、それでよいと思う。
「我々(私+五六人)」にとっての本番は、各々の死後に来る。