日刊早坂ノボル新聞

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◎水煙と「幽界の霧」の違い  (一年前の振り返り)

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令和二年七月六日撮影

◎水煙と「幽界の霧」の違い  (一年前の振り返り)

 七月くらいまでは、新しい異変が起き難いので、ほぼ人事に専念できる。それと共に、過去の出来事をじっくり振り返ることも可能だ。

  画像は昨年の七月初めのものだ。

 雨の日で、それっぽい写真はいくらでも撮れるから、気に留めていなかった。

 まだ梅雨が終わっていなかったが、徐々に異変が始まっていたようだ。

 

 「幽界の霧」とは、あの世とこの世の接点が生じた時に現れる霧状の煙だ。

 これは数年前に、岩手の御堂観音で初めてそれと認識したものだ。

 快晴の日で、空気が乾燥していたのに、画像には霧が立ち込めていた。

 目視ではまったく認識できなかったのだが、画像では周囲全体が霧に覆われていた。

 その前後に、「説明のつかない煙玉」や「女性の顔」が画像に残っていたから、「死後の世界」との関連があるだろうと見込んだ。

 そして、過去の画像を確認してみると、あちこちに同じ系統の説明のつかぬ「霧状の煙」が写っていた。

 自然現象に極めて近く、普通の霧と見分けが付きにくいのだが、御堂観音の時のように環境と合わぬ時には、割と判別しやすい。

 また、必ず何かしらの「異変」を伴うことで、それと推測することが可能だ。

 

 これが一体何なのかということについては、まだ調査中の段階だ。

 現段階の推測では、「意識(自我)の集合体で、混濁した状態」ではないかと見ている。

 ヒントは「説明のつかぬ煙玉」の出現の仕方による。

 ある種の煙玉は、周辺の空気中から沢山の「細く白い煙の筋」が一方向に伸びて、球体をかたち作る。画像ではこのさまが「球体から放射状に四方八方に筋が伸びる」ように映るのだが、実際に起きているのは逆のことだ。

 はっきりした球(玉)になると、コンマ下3秒くらいで周囲の色に同化して消えて行く。

 この煙の筋の源になるのが、霧のような煙(「幽界の霧」)ではないかと思う。

 

 ただ、晴れており、乾燥していれば分かりよいのだが、湿気の多い時には、自然現象の霧も発生するから、判別が難しくなる。

 太陽と湿気があり、光の照射角等の条件が合えば、煙玉状の反射や目視し辛い水蒸気の類も画像に残るからだ。

 よって、天候の条件が悪い時には、多少の異変が画像に見えたとしても、「何らかの自然現象の要因」を疑うのが原則だ。

 

 改めてこの時の画像に「引っ掛かり」を覚えるのは、何となく左側に人影が見え、それが基本的に二人で、後ろにいる背の高い男性とそれより少し低い前の女性に見えることだ。

 ほとんどの人が「気のせい」だと言うだろう。

 私もこれを単独で見る限りでは、疑いなくそう判断する。

 

 ただ、私はこの境内で同じ二人組の人影を幾度も見ている。

 画像の隅に、「高齢の男女が二人並んで写っている」のだが、後ろの男性は白いシャツに暗い色のズボン、前の女性は何か色模様のある洋服を来ている。

 いつも同じ姿なので「あの老夫婦」と呼ぶようになったわけだが、これが「おかしい」と思うようになったのは、「男性が冬でもシャツ一枚」だということからだ。

 気温が零度付近なのに、シャツ一枚で外出する年寄りはいない。

 ま、こういう経緯があり、二人組の老夫婦については、やや過敏になっているきらいがあるかもしれぬ。

 

 元々、可視域の境目にいるものたちだから、ぼんやりとしか見えぬが、さらに加えて、雨で湿気が多く、観察には不適切な日だった。

 「幽界の霧」には多く沢山の視線(眼)が浮かぶのだが、撮影条件が悪いせいもあり、薄らとしか確認できない。

 

 今もそれが「存在するのか」「しないのか」を検証する段階に留まっているが、確実に存在することを立証できれば、次は「どのように存在するのか」を確かめて行くことになる。

 元々は「生きている人の内にある魂」だったのは疑いない。

 そこから、一体、どのように「変わって行く」ものなのか。

 

 そのことは「死後、自我が覚醒した後、自分はどう振舞えばよいか」ということに繋がって来る。

 誰もが必ず死を迎える。しかし、「死後、どうなるのか」「そこでどう振舞えばよいのか」について、確たることは何ひとつ分かっていない。

 宗教が語るような「根拠の乏しい物語」など、何の慰めにもならない。

 「誰かが守ってくれる」「誰かがきっと助けてくれる」みたいな話にはウンザリだ。

 (この「誰か」は、「神」でも「仏」でも、あるいは「亡くなった御祖父さん」の類でも同じ。)

 必要なのは、そこで現実に起きている事実関係を具体的に確かめることだと思う。

 

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御堂観音にて撮影 晴天の日に、ある一時点に霧が立ち込める(画像の中だけ)