日刊早坂ノボル新聞

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◎上手な死に方

上手な死に方

 重病や臨死体験を経験した人から、「その時に何を見聞きしたか」と聞いている。

 さすがに死線の近くまで行き、そこから戻って来たケースはあまり多くない。

 また、肉体が滅んでからは、自他の区別がつき難くなるのだが、これは人が常に五感を通じ「己」を意識するからのようだ。自己を再確認するための手立てである肉体は、もはや滅んでいる。

 心停止以後に見聞きするものは、その人の記憶や感情の在り様によって、違いが生じる。

 事物自体のかたち(形象)が客観的な存在ではなく、「思い描かれたもの」(表象)に立脚していることが、「この世」と「あの世」の基本的な違いになる。

 では、心停止以後に何が起きるのか。

 個々のケースによらず、共通点を拾い出してみる。

 

1)心停止後に通るのはトンネルのような漆黒の闇 

 この時点では、自己の自覚(自我)が曖昧となっている。

 「トンネル」は言わば象徴であって、具体的な場所を示すものではない。上下左右、どこを向いても真っ暗な闇になっている。

 この闇の中での滞在時間はどれくらいなのかは定かではない。客観的な時間の長さを量ることが出来ず、自意識以外に測る術を持たぬためだ。

 概して、死期を予期し、心の準備をした上で亡くなった者は滞在時間が短く、事故や事件など不慮の死を迎えた者が闇の中で眠る時間は長いと言われている。

 後者では、死後に於いて自我が目覚めるまでは「十数年かかる」と言われる。

 かたや、死後まもなく闇のトンネルを抜け出る者もいるようだ。

 

2)闇(トンネル)を脱すると、そこは岩石砂漠

 正確にはこの段階では、まだ「死者」ではない。完全に肉体が活動を停止して居なくとも、「闇のトンネルの中にいる」自身を自覚したケースは割と多いし、そこから戻って来ると言う経験をした者もいる。

 死者は闇の中にいるが、遠くにひと筋の光を見取り、そちらに向かって歩く。

 それははるか遠くに見える小さな光なのだが、向かい始めると、一瞬で明るい場所に出る。

 ここで死者(または「ほぼ死者」)は、自分自身の存在を再確認するが、この時にいるのは、岩石だらけの砂漠のことが多い。あるいは、岩石砂漠と言うよりも「川原」をイメージする者もいる。

 この世界で見えるものは、当人の思い入れによりかたちが変化する。受け止め方で見え方が異なるということだ。

 

3)小道の先にある行き先はふた通り

 岩石砂漠には、小さく細い通り道がある。前に幾人かが通ったような薄い痕跡に過ぎぬが、他に術がなく、その道に従って進むことになる。

 この先の行き先は、ふた通りある。分岐の先には右手に「小川」があり、左手に「峠道」が見えている。

 

4)右手は「三途の川」

 「小川」は、いわゆる「三途の川」と呼ぶことが一般的だ。もちろん、「川」はイメージによって作られたものだが、多くの人が「川」と認識するようだ。

 案外、川幅が狭く、数メートルから十メートル程度の「渓流」になっている。

 川向うを望むと、多くは草の生えた原っぱが見えるようだ。

 この川の手前までが、厳密には「この世」の内で、川を渡ると、そこが「あの世」だ。

 臨死体験を経験した人で、生き返ることが出来た者は、ここに至った記憶を持つ者がいる。逆に言えば、川を渡った者で戻って来た者はない。川を越えた後に「戻って来た」というケースは一例も無い。

 一方、川の手前で「向こう岸にいる親族や知人」から「来るな」と言われて、この川を越えずに結果的に生還出来たケースは臨死体験者ではよく聞くパターンのひとつになっている。

 

5)左手は「峠道」に続く

 トンネルを出て、砂漠を先に進むと、すぐに分岐があるが、これを左手に進むと、道が次第に開けて来る。いわゆる「六メートル道路」の道幅になるのだが、ぽつりぽつりと人家が見えて来る。

 コンビニやドライブインのような店であることが多いが、そこに人影はない。

 以前は「店だった跡」、すなわち廃屋のこともある。

 いずれも最近まで人が生活していたような気配があるのだが、しかし、誰もいない。

 この廃屋については、「前に見たことがある」ような気がする。

 さらに先に進むと、周囲が再び暗くなって来る。よく見えぬのだが、山道に入って行くようだ。

 左右に樹々が生えており、葉の揺れる「さわさわ」という音が聞こえる。

 道は次第に坂となり、暗い峠道に入る。

 左右からは、鳥の鳴く声が聞こえ、道の先では「かやかや」という人の話し声が小さく響いていたりする。

 この道を進むと、人によって様々なものや人影を目にするが、総て「かつて見た・会ったことのある」ような気がする」ものや人影になる。

 懐かしいようでもあり、薄気味悪いような心持になる。

 話し声が次第に大きくなり、すぐ間近で断片的だが言葉が聞き取れるようになる。

 この峠は、自分と他の者の意識が交錯する場所であり、この世とも繋がっている。

 「廃屋」付近から戻って来た者はいるが、峠道に入り込んだ者で生還したケースはない。

 「川」の場合はこちらの岸まで、「峠道」の場合は坂を上り始める前までが、元の人生に引き返せる地点となるようだ。

 

 ここから先は、推測であり想像だ。

 左手の峠道は、いわゆる「死出の山路」と言われるものだ。

 ここは生前の自我がそのまま残る世界で、これが幽界となる。要は「幽界」とは「幽霊が棲む世界」と言うことだが、これはこの世とも繋がっている。肉体は滅んだが、自我・自意識が生前に近い状態で保たれる。自我の崩壊を食い止めるのは、怒りや悲しみと言った負の感情のことが多いようだ。

 幽霊がどれもこれも薄気味悪いのは、「心持ち(心境)」があまりよくないことによる。

 

 以上が、「死後の世界」の入り口になる。(自我の有体により、人によって見え方が異なるから、厳密には「世界」ではない。)

 その先については、想像に頼るしかないのだが、トンネルを出た後にすべきことは明確だ。

 「もう一度来た道を戻る」か、「小川を渡り、今生を脱ぎ捨てる」のいずれかにした方がよい。

 三途の川は狭いようでいて広い川なのだが、川面を歩いて渡れる。これを渡り、「次に進む」こともひとつの考えだ。

 また、もう一度、トンネルに戻り、来た道を逆方向に進むと、生き返れるかもしれぬ。

 戻り始めると、一瞬で元の体に入っている。

 

 避けるべきは「死出の山路」に入り込むことだ。

 そこにはどこか見たことのある家があり、集落がある。先に進むことで、自分の家や家族の許に帰れるような気がするのだが、山道を登り始めた時点で帰るべきところは無くなっている。

 もはや幽霊に変じており、そこにいることで悪心だけがつのる。同じような心根を持つ幽霊が寄り集まっては合体し、より強い悪縁(霊)に変わっていく。

 その時には、恨みや憎しみが自我の拠り所となっているから、その感情に支配され、自我存続(生き残り)のため、さらに仲間を求める。いつの間にか地獄の中にいるのだが、それは自分自身の意識が創り出した世界だ。

 既に思考能力を失っているので、幽霊、生者を問わず、誰彼構わず近づいては同化しようとする。

 完全に悪縁(霊)に変じて仕舞えば、もはや自らを顧みることも無くなる。

 

 これを避けるためには、生前から「死後の振る舞い方」について、よりよく深く考え、心の中に刷り込んで置くことが必要になる。死ぬと脳が機能しなくなり、知能が使えなくなる。感情だけの存在になるのだから、感情面で心底より受け入れていないと、上手に立ち回ることは出来ない。

 

備考)最初の「トンネル」の中から自覚する者が多いのだが、「トンネルの手前」すなわち、生死の境目もしくは死んで間もなくで自我がそのまましばらく残る場合があるようだ。

 心停止した自身の体を「第三者的に外から眺めている」というケースなどがこれだが、厳密には、これはまだ死んでいない状態で起きることなので、除外してある。

 私は二十台の末に心停止を経験しているが、マッサージを受けている間、私は医師の脇に立ち、自分自身を眺めていた。

 また、昔から「死後一定の期間、死者はこの世に留まる」と言われて来たが(概ね「四十九日」)、あながち根拠のない話でもないようだ。

死出の山路」ではこの道の先に坂道が待っている。進むごとに暗くなっていく。