◎夢の話 第1K73夜 俺の彼女じゃない
二十一日の午前一時に観た短い夢です。
我に返ると、俺は車の運転席に座っていた。
車の外は真っ暗だ。夜更けのよう。
気が付く間もなく、助手席のドアが開き、人が入って来る。
香水の匂いと赤いスーツ。
「待った?」とその女が言う。
「いや。そうでもない」と俺。でも、俺にはこの女が誰なのか思い出せない。
困ったな。「あなたは誰でしたっけ」と訊ける雰囲気じゃない。
「何言ってんの!」と叫ばれそうだ。
仕方が無いから、しばらく話を合わせることにする。それで、じきに思い出すだろ。
女の顔を見る。宝石店の店頭に立っていそうな感じの女だ。
「何見てるの。早く行きましょうよ」
でもどこへ?
車を発進させ、道に出たところで、さりげなく訊く。
「最初はどこだっけ?」
「買うものがあるから、先に※※屋に行ってね」
「はいはい」
すぐに広い道に出る。
横目で女の表情を見たが、あまり機嫌が良さそうではない。
見たとこ二十六七だな。割と整った顔立ちをしている。
それからしばらく無言だったが、唐突に女が口を開いた。
「ねえ。お医者さんに行ってみたけど」
「何か言われたか」
「私は体が弱いから、子どもを作れるのは、たぶん一度だけだろうって言ってた」
「そうか」
再び女が口をつぐむ。
あれあれ。その話の後の「だから」の続きが来ないぞ。
言い難いことなのか。
ここではっと気づく。
(俺には別に妻子がいたような気がするなあ。)
別に妻子がいるんじゃあ、この女とは不倫をしてるってことだ。
だが、そんな記憶は塵ほども無い。思い出せぬのではなく、そういう記憶が存在しないのだ。
そこで確認のため女に訊いた。
「俺とお前は幾つ違うんだっけな」
「二つでしょ。学年はひとつだけど」
なるほど。どこかは知らんが学校の時の知り合いだったのだな。大学か高校の先輩後輩だ。
ここで薄らぼんやりと記憶が蘇る。
「おかしいな。それなら俺はまだ二十台だ」
そんな筈がない。俺が結婚したのは三十を過ぎてからだ。
それなら妻子はまだいない。彼女はいたが、この女じゃない。
「まるで夢を観ているようだな」と呟く。
「え。何?」と女が不機嫌そうにこっちを見る。
俺はついに気が付いた。
「これは俺じゃないな。俺の人生じゃない」
女は黙ったまま俺の表情を見ている。
「俺はずっと年が上の別人の筈だ」
なるほど。俺はこの若者の心に入り、それを乗っ取ったのだ。
女の方に顔を向け、目を覗き込んだ。
どこか気持ちの悪い、暗い光り方をしている。
「お前も到底生きた人間じゃないな」
俺を取り巻く世界がきゅうっと遠くなる。
「おまけに、ここは生きた人間の住む世界じゃないや。ここはあの世だ」
幹線道路を車で走っているのに、街灯一つ見えて来ない。
街はあるが、どの家にも灯りが点いていなかった。
暗がりの中、女の表情を見た。
両目の瞳が上下左右にくるくると動いている。
「ここが『死出の峠』の中なら、朝は来ないぞ。俺は一体、何時までここに留まることになるのだろう」
どんどん気が遠くなる。
ここで覚醒。
「俺」は既に死んでおり、「あの世(幽界)」で別の若い男の幽霊を食って、そいつに化けた。
その男の連れの幽霊が来たが、その女も別の悪縁に食われた後だった。
幽霊たちは、消滅を避けるために、他の幽霊を食い、その自意識を手に入れる。
喜怒哀楽の情を高めると、自我が強くなるからだ。
ところで、三十年くらい前、自分の駐車場に車を止めると、女性が駆け寄り、勝手に助手席に入って来た。
「ごめん。待った?」
派手な赤い服を着ていた。
「え」と驚くと、どうやら車を間違えたらしく、慌てて出て行った。
女性は近所に住む奥さんで、その奥さんはダンナが不在の折に、別の彼氏と頻繁に出掛けていた。
その時に家の近くの私の駐車場で落ち合っていたから、たまたま私がその時刻に帰ったので、「彼氏のだ」と思い込んだらしい。やはり程なくしてその夫婦は離婚した。
その時の「いきなりドアを開けて、ケバい女が入って来た」時の記憶が、この夢を構成する元になったらしい。
人間は生まれてから死ぬまでの総ての人生体験を記憶している。
昔は「死ぬと、最初に閻魔大王の前に引き出されて、生まれてから犯した罪を悉く見させられる」と言われたものだが、閻魔大王とは、実は自分自身なのだった。
感情の動きと共に、総ての記憶が保存されているが、普段は引き出しの奥に仕舞われている。
注記1)『死出の峠(山路)』
死後に見る景色はあくまで心象風景だから、そこで見えるものはその人によって小異がある。共通の傾向では、死ぬとまず最初に「トンネル」を通る。
それを抜けると、岩石砂漠があり、道が二手に分かれる。
片方は「川」に続く道で、先には五㍍から十㍍の幅の小川があるが、これが三途の川だ。
この川を越えると草原で、その先は霊界に続く。
もうひとつの道の先には「峠(山路)」があり、道が次第に険しく、暗くなって行く。
峠の先には、生きていた時と同じ街並みが現れるのだが、灯りは無く人影も無い。
時々、怖ろし気なバケモノが現れたりする。朝は来ず、そこに入った者は互いを避けながら隠れて暮らす。ここがこの世に繋がる幽界だ。幽霊たちはここにいる。
注記2) 「幽界」の質
幽界には、生前にいたのと同じ街が存在しているのだが、荒れ果てている。街にほとんど人を見掛けぬが、見えぬだけで、気配はある。見えぬのはひとの存在を認識することが出来ぬからで、何かしらの接点を持つ者でないと見えない。
時々、悪意が変化したバケモノが現れるが、悪意は誰の心にもあるから、こういうのは目に見える。
夜明けの来ぬ世界で、ここに希望は無い。