日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「見寛の原母」

四年銭小様から見寛に至る流れ

◎古貨幣迷宮事件簿 「見寛の原母」

 資料整理を進めていると、みちのく大会(18回)の記念銭譜が出て来た。

 南部古泉研究会(昆会長)の主催の時のもので、銭譜の作成には私も関与した。

 末尾に「北岩手(八戸方面)に於ける鋳銭について」という資料を掲載したのだが、この部分は南部コインズ奥井氏と私が協議して作成したものだ。

 当時は花巻での例会の後、希望者で食事をしたりしたが、その後、再び南部コインズの店舗で奥井氏と会い、八戸銭の話をした。

 結果的に、昼と夜の二回に渡り奥井氏と食事をすることになり、殆どの場合は奥井氏のご馳走になり恐縮したものだ。

 話題は主に南部銭のことについてで、とりわけ「八戸銭とは何か」に集中していた時期がある。明治の「南部史談会」時代から、これまで八戸銭について系統的に整理した人はいない。これは「どこからどこまでが八戸銭で、盛岡とはどう違うのか」という議論になる。

 とりわけ二戸福岡方面の鋳銭は、「そこで行われた」という記録があるだけで、具体的な証拠は何一つない。目寛見寛座といった葛巻職人が転地して派生した銭座もあったのわけだが、これも今も整理がついていない。

 整理できぬ理由は簡単で、収集家のほぼ総てが「分類」を志向するからということになる。要は「形態の違いを見て、各々の独立性を見取り、区分する」という観点になるのだが、そもそも、誰がどうやって作ったががまるで分からぬのに、型分類を進めようとしても、単に種類が増えるという結果だけが残る。

 まずは系統的に「作り方を観察しよう」というのが、議論の始まりだった。

 

 十八回の「みちのく大会」は「平成十五年」開催となっているが、この当時はまさにこの議論の真っ最中だった。

 資料集の中に「明和四年銭小様の鋳写し母」の掲載があるのだが、これは私が発見したものだ。160枚超の八戸母銭を一括入手した時に混じっていたものだが、これを拾った人はおそらく「千無背の鋳写し母」だと思ったのではないか。

 これを出品掲示してからの反応を見て来たが、収集家の多くはやはり「石巻千無背の鋳写し母」に見えていると思う。

 石巻銭の原母は、「既存の公用銭に範を取り、新たに金属板に拓本を貼付した上で、これを彫金するという手法を取った」から、必ずその元となった銭型がある。

 例えば、当四削頭千は、9割以上が深川俯永の型に一致するわけだが、これは起源を異にする場合は有り得ぬ比率である。かたや、局所的に「写し」には起こり得ぬ相違が発生しているため、単純に砂型を用いて型取りしただけのものではないことも確かである。そのことで、「拓本を貼付して彫金した」という彫母の製造方法が判明した。

 この場合、もう一度、彫母から銅原母、汎用母とおろしていく必要があるから、拓影よりも外側に、すなわち大きく掘り進めたわけだが、その過程で、職人のくせが出て、細部に修正が加えられた。四文字の配置が90%以上合っているのに、文字最終画の跳ねが別の方向を向いていたりするのは、このためだ。

 

 八戸の密鋳銭座の職人は、石巻より持ち帰った背千母銭を摸鋳したり、公用銭を改造して母銭に転用したりするなどして、母銭の枚数を揃えたようだ。

 このうち、八戸藩が後ろ盾となった葛巻鷹巣鷹ノ巣)では、専ら石巻銭を転用した母銭を揃えてから、鋳銭を行っている。この葛巻職人が分離して新たに鋳銭を試みたケースが二戸目寛見寛座である。

 この開座に際しては、母銭の必要量がどうしても足りなくなった。これが動機づけとなり、公用銭を改造し母銭となし、枚数を揃えた。

 これが目寛や見寛という、銭としては突飛な形態を持つ銭に繋がったわけだが、不思議なことに、中間種がまるで見当たらない。

 段階的に変化したのであれば、それなりに中間段階の品がある筈なのだが、これがまったく存在しない。

 これを説明するのが「粘土型」の採用という要素である。粘土型はあまり回数が使えぬことと、乾燥が甘いと型そのものが縮小するという欠点を持つ一方で、表面が比較的滑らか子銭を作ることが出来る。母銭作成には、なるべく明瞭な型取りをするのが望ましいから、欠点に目を瞑って、これを利用した。

 そのことで、型自体の急激な縮小を招き、規格に外れる独特の銭が生まれた。

 その一例が、明和四年銭から見寛に至る変化の流れである。

 この当時は、各々の写真を撮影し、これを重ねることで比較照合を行ったのだが、銭種が高確率で一致したのが、明和四年銭小様だった。

 もはや二十年くらい前の話でもあり、資料なども散逸していたのだが、今回、「合わせ」の一部資料が出て来たので、少々編集した上で掲示することにした。

 「明和四年銭小様」と「石巻葛巻)小字背千」、および「見寛」は相互に似通っているのだが、表側を見るよりも背輪と内郭の配分比を見れば、「見寛」は明らかに「四年銭小様」に酷似していることが分かる。

 

 この情報がまるで伝わって行かぬので、「八戸銭を研究している人はいないのだ」ということが分かった。研究報告をして、これが浸透するまでは、何年もかかるから、「入札販売掲示をして様子を見る」という少しあこぎな手法を取ったのだが、意見を含め反応がなかった。当たり前だが、この銭種の現存はこの品一枚だけであるから、誰かが応札しても落札しなかった。「もし同型品を持っていれば、何かしらの反応がある」と見込んだわけだが、そもそも関心を持つ人が皆無なのだから、それと気付くわけがなかった。

 こと南部銭のジャンルに於いても、やはり「分類」嗜好の収集家が中心で、「製造工程」に関心を抱く者は少ない。これは、割と分かりやすい当四銭についても、「いずれが大迫製なのか、栗林製、橋野製なのか」という判断の付く収集家がごく少数にとどまっていることで容易に想像がつく。

 

 銭種としては「明和四年銭の鋳写し母」なのだが、系統的に眺めると、この品は「見寛の原母群のひとつ」であることは疑いない。配置バランスを確認する画像処理技術があれば、合致率をパーセンテージまで算出できると思う。

 図3ロが最も分かりやすいと思う。

 

注記1)いつも通り、推敲や校正をしないので、表現に不首尾があると思う。

 画像の合わせを詳細に掲示すれば分かりよいと思うが、既に古貨幣のことは正直、飽きたきらいがある。Nコインズ奥井氏が亡くなってからは、分類以外の話をする機会がなく、正直なところ、古貨幣は退屈なものになった。

 

注記2)当時は「北岩手方面」としか表現できなかったが、盛岡藩八戸藩および津軽藩に跨る領域については「北奥」という呼び名がある。以後はこちらを使用している。