◎古貨幣迷宮事件簿 「通貨と絵銭の話」(続)「鋳造貨幣の出自を探る」その2
まずは思い出話から。
さて、またまた25年以上前のことになるが、ある日、NコインズOさんが私に「背千の母銭がまとまってあるが一括で買ってくれないか」と言った。
軽く考え、「良いですよ」と答えた。頭の中では「20枚かそこらの話だろう」と思ったのだ。ところが、「ではこれです」と差し出されたのは、ブック2冊だった。
既に収集済みの品が十五枚はあったので、正確な枚数は忘れた。何せ昔のことだ。
持っていた品の方も一時に入手した品だ。
O氏からブックを買った数年前のこと。仙台駅での乗り換えに時間があったので、藤崎デパートを訪れた。すると、たまたま入ったばかりのブックがあった。見せて貰うと、中身は概ね背千の母銭だった。「一枚五千円です」と言う話だったが、中に大字背千が混じっていた。じっくり見たいが、十五分くらいしか時間がない。
仙台銭のことは殆ど知らぬが、「大字背千の母銭」なら五千円ではなかった気がする。「全部五千円ですか?」と訊ねると「そうです」との答えだったので、大字背千を含む十枚くらいを買わせて貰った。
その後、仙台銭は殆ど見ずに、Oコインや他のコレクターに譲ったが、ボウ鋳背千らしき品は残して置いた。当時持っていた他の品は入札で買ったものが少々だ。
普通の小字背千の母銭であれば、当時は枚単価五千円で「もはや一杯」の値で、ボウ鋳となると少し低く見られた。これは不出来でみすぼらしい品が多いためだ。
さて、Oさんの件では、「いいですよ」と答えた手前、品物を引き取ることにしたが、1冊80枚×2冊だから80万円の買い物だ。あとで検めたが、中身は仙台、南部の背千母銭と銅銭(背千通用銅銭)だった。欲しいのは南部領の銭なので、後で仙台銭を十枚単位で安値で放出した。
南部銭らしきボウ鋳背千の方は、その後二十年以上楽しませて貰った。
「同じ銭種で、作り方が違う」という格好の資料だ。その上、後で分かったことだが、「てっきり収集家がコレクションを売りに出したもの」と思っていたのだが、実際にはOさんが二戸周辺で雑銭から出したものだったようだ。
後にOさんは「寛永銭を二差買って、店に戻って解いて見たら、全部が背千の母銭だったから、手が震えた」と言っていた。あ、それだわ。
「それじゃあ、それを枚単価五千円で売ったなら大儲けじゃないか」と思ったりもしたが、業者さんだから別に当たり前のことだと思いなした。客の便宜を図って利益を得るのが業者さんだ。
ところで、二差しなら二百枚くらいだが、引き取ったのは百六十枚だった。残りの四十枚はどこに行った?
すなわち、その分は「五千円では売れぬ品」で、要するに役の付いたものだということだ。舌千系統の品が無かったから、多分それだと思う。
Oさんには幾度もこういう突っ込まれ方をしたが、その一方で、入手の難しい品を優先して譲って貰った。こういうのはお互い様だ。いちいち「高いの安いの」と言っていると、個別に紹介されるケースが無くなるから、入札を通じ、競って買うしかない。
もちろんこれは「安く買える」と言う意味ではない。直接、電話で「こういう品があるのだが」と連絡が入る時には、売価は「オークション以上」だと思った方がよい。
オークションでは大量に品が出るので、競りに「穴」が生まれ、誰も競って来ずに安く買えることがあるが、紹介の場合は、既に「お腹一杯」の値段だ。
だが売買の煩わしさが無いことと、その銭の背景について話を聞けるという利点がある。入札やオークションでは、詳細な説明はなく「銭種」しか情報が得られ無い。
さて、この背千銭は大層勉強になった。数十枚ずつを見ると、大量観察に近い検分になり、砂づくりや仕上げ工法などの違いが分かったのだ。
もっとも多かったのが、やはり仙台銭を踏襲したもので、砂も割と良いものを使っていた。鉄銭の型と分布を照合すると、どうやらこれが葛巻銭座で作られた銭らしい。葛巻の街中や周辺で出た品(ウブ銭)には、背千写しや舌千系統のものが多いのだが、目寛見寛類はあまり混じっていない。
鷹巣(鷹ノ巣とも)銭座は、密鋳銭座と言えども、職人が一千人を優に超えていたので、「大量の鋳銭に見合う母銭を準備した」と見れば、実際の分布に合う話だ。
なお葛巻鷹巣銭座は一か所に集中してあったわけではなく、多々良山までの一帯で移動しながら炉を築いたようだ。完成品を鷹巣(字あざ)の「山内」(地名ではなく一般名称)に持って行き、そこで取りまとめた。たたら炉は一度作ると取り壊すし、炭の調達のため、木材を大量に必要とする。そこで移動して炉を築いた。
論より証拠、山の名前が「たたら山」になっている。
ちなみに、今は中に入って行くのは危険だ。山道は険しいし、熊が出る。最初に分け入った時には、いきなりカモシカが目前に出て驚かされた。カモシカは古名を「青獅子」と言い、雄はライオンに似たでっかい顔をしている。
さて、話を元に戻すと、ここでの本当のテーマは「四年銭小様」の鋳写し母になる。
「葛巻」および「目寛見寛座」については、過去には銭籍が様々移動したが、戦後は「葛巻」か「八戸」とのみ書かれることが多かった。
Oさんとの議論のテーマのひとつは、「実際にはどこでどのような鋳銭が行われたか」ということだった。とりわけ、「目寛見寛座」の鋳銭が問題になる。
「何故に、目寛や見寛のような極端に小型の銭を作ることになったのか」
「実際に使えたのか」等々である。
後者については、すぐに答えが出て、貨幣には「斤量使い」の側面があり、重量を計測すれば「※文相当」と簡単に交換できる。要するに「使えた」ということだ。
維新の前後で交換比率が銅銭1枚=鉄銭6枚だったが、数年後には密鋳鉄銭であれば十数枚までレートが下がった。これは密鋳鉄銭の製造が明治三四年まで行われ、生産過剰になったことによる。当時の括りを見ると、一括りが十枚だったり、十ニ枚だったりしているので、概ね括りごとの「重さが基準であり、枚数ではなかった」という意味だろう。
(話題がそれるので元に戻す。)
1)目寛見寛座 明和四年銭鋳写し母の発見
さて、「葛巻銭」と「目寛・見寛類」には似ているところと似ていないところがある。前者はオーソドックスな背千の作成を目指しているのに、後者は目寛・見寛を始め複数の一般通用銭に端を発した銭種がある。製造工程もかなり違い、砂目や輪側の仕上げ方も著しい相違がある。
ま、最初に見るのは輪側だ。これが直角に立っており、包丁を研ぐ時の肌理の細やかな砥石で研いでいれば、目寛見寛座のものだと見て良い。
ここからが、漸く本題だ。
私が引き取ったブックの背千銭や無背銭を見ていると、ひとつ腑に落ちぬ品があった。触り慣れた「小字背千」とどこか違う。書体は小字背千無背のようだが、どうにも違和感がある。
O氏にも見て貰い、「これは普通の小字千無背ではないですね」と言うと、O氏も首を捻っている。
2)「これは小字千無背ではない」
書体が殆ど同じなのに、微妙に違う箇所がある。近似した書体を探してゆくと、「明和四年銭小様」に行き当たった。
だが、この銭は「仙台(石巻)小字背千」にもそっくりだ。
ここで、当四削頭千無背のことを思い出した。仙台では江戸の銭を「範として」母型を作り始めている。それなら、小字背千の出自が四年銭だということもあるのではないだろうか。
ここからが紆余曲折したので、上手く説明可能な言い方を見付けたのは、割と最近だ。
結論を先に書くと、次の通り。
「明和期小字背千・無背が範としたのは、明和四年銭小様降通である」
「この品(鋳写し母)の基になったのは、明和四年銭小様である」
要するに「この品は、明和期小字千無背の写しではない」と言うことが出来る。そもそも起源が違う。「似ている」のは近縁種を素材に取ったからということ。
<要約>
「明和四年銭降通」 → 「明和小字背千」となり(A)、
「明和四年銭」 → 「掲示の品(四年銭鋳写し母)」であるなら(B)、
「A → B」は成り立たない。
この検証プロセスは前回とほぼ同じで、既に報告済みなので省略する。
3)見寛はどこから?
目寛見寛座については、小笠原白雲居の「南部鋳銭考」によれば、「元は葛巻で鋳銭に従事していた藤八(または藤七とも)が二戸地方に行き独自に座を開いた」と記している。別称を「藤の実」と言うが、藤の花のように小さくツブツブであることと、暗に「藤七(八)」の名を示した呼び方だったようだ。
葛巻との主な相違は銭種の構成で、元が葛巻銭座の職人であるから、葛巻背千を持っていたが、枚数が少なかった。このため、一般通用銭を鋳写して、これを母銭に加工して鋳銭に充てた。
このような銭種としては、前述の「目寛」「見寛」「背元」「背元様(水永)」「縮字」他である。母銭を彫母などから作ることはせず、専ら「写す」ことで入手することになった。(なお地元での呼び方は「目寛(めかん)」「見寛(けんかん)」である。これは「めかん」「みかん」では紛らわしいことによる。)
この場合、座銭の書体には近似した一般通用銭がある。
◆<一般銭>から<目寛見寛座鋳銭>の対応関係 (事例)
「小子背千・千無背」→「小子背千・千無背」
「背元」→「背元」「背元様(水永)」
「座寛」→「目寛」
「縮字」→「縮字」
さて、この座の代表的な銭種のひとつである「見寛」の出自はなんだろうか。
O氏との議論の中心は、まさにこの点だった。
小字背千の系統の品であれば、一定の枚数があり、それを基にした母銭が存在している(目寛手背千)。
見寛は明らかに出自を違えるが、これはどこから来たのか。
4)原因は鋳型によるものか
「目寛」という銭種は、書体の上で全体は「座寛」に近似しているが、部分的に変化の著しい箇所がある。また銭径が縮小し、内部が詰まっている。
形態としては、他領に類例のない「突飛な」ものとなっている。
これを説明するための私の説は、「私鋳であり、良質の砂を持たなかったので、肌の滑らかな母銭を作る段階では、粘土型を使った」というものだ。
通用銭は鉄銭で、鉄銭はそもそも仕上げをしないし、銭のかたちをした鉄であれば、換金が可能になる。目寛見寛座は専用の鋳砂をもたなかったので、通用銭に関しては山砂(珪砂を含んだ土)を使ったが、それでは砂目が粗く良質な母銭が作れない。このため、粘土で型を取り、これを乾燥して母型にした。粘土型は肌がきれいな製品が出来るが、1回から数回で割れてしまうことがある。大量の鋳銭には向かず、母銭のみの対応になる。
これを実証に近付けるために、実際に作ったのが参考図の永楽銭である。
この小型の方は、粘土で型を採り、これを乾燥した上で、電気炉で溶かした銀を流し込んで作ったものだ。素材を銀にしたのは、粘土型に関する課題の他に、永楽銀銭に関する疑問があったからで、要は当時市場に出ていた銀銭(特に天正)が後出来だろうと見込んで検証を試みた。ちなみに、天正は四枚くらいをサンプルとして入手したが、最終的に私なりの見解が確定する前に半値で売り払った。(となると、その見解の内容は想像出来る筈だ。こちらのヒントは地金の配合。もちろん、少数サンプルでの話なので公に口にしたことはない。)
さて、この作業で分かったのは、粘土型は乾燥させる途中で、型自体が著しく縮小してしまうことだった。砂型であれば、型自体の縮小は少なく、ほぼ金属の湯縮だけを想定すればよいが、粘土型の場合は、型が著しく縮小するために、意匠に不規則な変化が生じる。
ま、実験の時には、工作用粘土を使ったが、素材が固くあまり良い型にならぬので加水して粘土を柔らかくした、という経緯がある。水分を加えたことで、これが乾燥するに伴って縮小する度合いが大きくなったようだ。
傍証の積み重ねになったが、掲示の品は「目寛見寛座」の「明和四年銭の鋳写し母」であり、さらに「見寛の初期形態(原母群)のひとつ」であると思う。最後の部分を確認するには、類例が幾つか必要だが、これまでこれを持つ人に会ったことが無い。
そもそも寛永銭譜では、仙台以外の密鋳背千は「ボウ鋳背千」とのみ記されて、拓本が一枚載せられるだけだ。これはこれまで誰も興味を持って来なかったということだ。
もし古銭収集家の性癖である「型分類」で眺めようとすると、八戸銭は何百種類にも分けられると思う。これは、銭の密鋳を大掛かりに行ったケースは僅かで、多くは小規模のたたら炉で行われたことの帰結的傾向になる。工程が人によって、また炉によって異なるわけだから当たり前ではある。
八戸方面の密鋳銭を理解するには、鋳銭工程で整理してゆく他に道はないと思う。
「八戸背千銭」として、五百種八百種の分類を行ったところで、殆ど自己満足で、誰一人理解出来ぬし、そもそも興味も示されないということだ。
この四年銭写しも、ただ「千無背の写しだろう」と眺めていた人が殆どだった筈だ。
それ以前に「関心を持って見たことが無い」わけだが、これは批判的な意味で言っているわけではない。収集や研究は自身の興味のある対象に絞った方が深く掘り下げられるし、負担が軽くなる。だが、その見識を他のものに当て嵌めようとすると、大体は判断を誤る。
何せ古泉家は古銭書しか読まぬし、古銭収集家としか付き合わない。
これが集まりにも出ず、ネットや古銭書にのみを頼っていると、もっと悲惨だ。
こと南部銭については、大正以降に文字に落とされたものはほとんどデタラメに近い。『岩手に於ける鋳銭』を原典に近い状態で精読した者はいないし、勧業場について実態を調べた者もいない。ただ手の上の銭を見て印象や憶測を記しただけだ。それをテキストにしたら、まともな知識が得られるわけがない。
収集の先輩たちが「まずは会(集まり)に入り交流を持て」と言って来たのは、そういう意味だ。少なくとも体験交換の契機にはなる。もちろん、収集家以外の交流もより一層重要だ。「鋳造技術」を学ばずして、「鋳造貨幣」が理解出来るわけがない。
さて、私やO氏は、ひと目で「これは小字背千の系統ではない」(正確には「背千本来のものとは違う」だった)と見て取ったが、それも百枚単位で手で触ってみた経験によると思う。 とりわけ、当時は目の前にブック2冊160枚とバラ銭20枚弱が見えていた。
今のところ、四年銭鋳写し母の現存(確認数)はこの一枚のみだが、検証すればあと何枚かは出て来るように感じる。
「目寛見寛座」の「四年銭小様・鋳写し母」であるだけで、位付1の珍品だ(w)。
蔵中を探してみる価値はある。と最後は古銭家の関心に沿って書いて置く。 (この項終わり)
注記)いつも通り、記憶を頼りに一発撲り書きで記している。推敲も校正もしないので不首尾はあると思う。あくまでエッセイの範囲と理解されたい。
追記1) 「四年銭写し」は背郭の上のスペースが狭く、「千」字の入る余地がない。
鋳写しを重ねた結果、内輪と内郭の間だが詰まるケースがあるわけだが、この品の銭径は大きく、鋳写しにより縮小したわけではない。
追記2)図10は、便宜的に拓本と画像というソースの異なる素材を重ねたので、目視確認が難しくなっている。私自身はA4大に拡大して見ている。画像の場合、谷までの傾斜が視野に入るので、拓すなわち同一平面上の情報に縮約した情報で比較する方がやりやすいと思う。