日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ものは考えよう

鬼門封じ

ものは考えよう

 土曜に病院から帰ると、すこぶる調子が悪くなり、すぐに横になったが、結局そのまま丸一日経った。

 最初は下痢で、お腹の中が空になると、今度はぜんそくの症状だ。

 仰向けに寝ると息苦しくて堪らぬので、極力体を起こしているが、疲れて体を倒すと、また苦しい。

 家人は「動けるうちに救急センターに行った方がよい」と言うが、いざとなれば救急車を呼べばよい話なので、そのまま経過を見た。

 この三か月はアレルギーから気管支ぜんそくの症状が出て苦しんだわけだが、アレルギー系の症状が鎮まってもぜんそくが残っているので、要は別途心臓ぜんそく心不全)を発症しているということだ。

 ま、一月か二月に「左心房に梗塞箇所がある」ことを指摘されているので、この影響ということ。元々、私の心臓は既にハリボテの状態だし、動き自体が本来の半分くらいだ。

 これから循環器の予約を取るが、心臓ぜんそくだと、酸素吸入して息苦しさを軽減するしか手はなかったと思う。

 残りは最大で数年だ。短ければ今月来月。

 こういうのは純粋に「身体機能に限界が来ている」ことなので、打つ手はなさそう。

 現状で棺桶の顔の扉しか開いていないわけだが、そのうちそれも閉まる。

 

 しかし、悲観的な気持ちはまるでない。

 そもそも四十台でふんだんに既往症があったわけだし、五十台では幾度か死に掛けた。

 最近は、毎年、「もはやここまでじゃねえか」と思う事態になっている。

 「十数年前に死んでいても当たり前」なら、オマケ・お釣りの人生が十年以上も貰えている。

 そもそも、自分へのお迎え(死神)をまともに見れば、普通、残りは半年一年だ。本番のお迎えは割とすぐにやって来る。

 それをここまで引っ張っているから、要は全部丸儲けということだ。

 私の年齢では、病・死を迎えるのは誰の身にも起きるごく普通の事態だ。自分の死を直視することなく、突然の最期を迎える人も多い。

 別にフツー。

 その上、「死んでもそれは終わりではなく続きがある」ことを知っているので、「自身の存在が消滅し、無に帰する」ことへ恐怖はない。

 

 さて、以下の「死後のステップ」は私自身の経験とイメージで作られたものだ。死後の世界は、基本的に当人の持つ心によって形づくられるから、かたち自体にさしたる意味はなく、原理や要因に意味がある。

1)心停止すると、しばらくは自身の体の近くにいる。

2)その後、長く暗いトンネルを通る。

3)トンネルを出ると、岩石砂漠が広がっている。

4)割とすぐ近くに川が流れている。川幅は七八メートルで、小川のサイズだ。これがいわゆる三途の川だ。私はこの手前まで行ったことがある。これを渡ると、向こう岸には草原が広がっているようだ。川を渡り草原を進んで行くうちに、今生の執着心や自我自体を解放できる。

5)川の反対側、すなわち自分の後ろには、小道があり岩山に続いている。その方向を目指すと、坂道に至るが、そこに森がある。

周囲は真っ暗だ。この峠を進んで行くと、周りから物音が聞こえ始める。人の声だったり、獣の鳴き声だったり、物が落ちる・崩れるような雑音だ。これが「死出の山路」だ。

6)「死出の山路」では、生前の自我がそのまま残る。ただし、頭脳を失っているので、合理的な思考が出来ず、感情だけで行動する。

 峠の向こうは、現実の世界と重なっており、現実とほとんど同じものが存在する。これが「幽界」だが、これは当人のイメージを反映させた心象世界だ。道端に現実に存在するコンビニと同じものがあったりするが、当人に見えるのは廃屋だったりする。

 この「殆ど同じものがアイテムとしてある」ことで、接点が生まれ、現実世界と幽界が交錯することがある。同じ場を共有することで、物的な存在と心象が接近すれば、音叉のように共鳴することがあるということ。

 

 私自身が死ぬと、今は「死出の山路」を選ぶ。要は幽霊になり、この世の近くに留まるということだ。

 おまけに「黒い女」や「アモン」と約束をしたので、以後は彼らと行動を共にする。

 経験の無い者は悪縁の所在を信じぬだろうが、これは実体として存在する。なお、ひとまず「悪縁(悪霊)」というこの世の呼び方をするが、映画や小説のような善悪二元論的な立場ではない。

 あの世に絶対神はいないし、善も悪も無い。よって善霊も悪霊も無い。守護霊などもいない。

 ただ、仲間のようなものはいて、自分と近しい者は合体して自我を強化する。 

 まるで宗教だが、他の者に「これを信じろ」と言ったり勧誘したりすることはない。

 これを理解するには相応のステップが要るからだ。

 

 臨死体験をして「あの世を見て来た」と言う者がいるが、その世界が外的世界(「自分の外にある世界」)だと思っていることが多い。

 それが自我から独立した世界だと思うことは誤りで、その世界の多くは当人が創り出した心象だ。キリスト教徒は神と悪魔の存在をあの世で確認するが、それは「そのように眺める」ことによる。

 あの世がキリスト教的な神の産物なら、異教徒のことはどう説明するのか?

 これに対する答えは、「そこは幽界で、そこで見聞きするものは、総て当人が創ったイメージで形成されている」というものだ。

 仏教徒は仏教的なアイテムに満ちた世界に入る。見え方は異なるが、存在意義の本質を考えると、共通点が必ずある。

 

 さて、私は「自分が死んだら密葬にしろ」と息子に言い付けてあるが、もし私の知人が、風の便りに「どうやら死んだらしい」と言う噂を聞いたなら、鬼門封じの近くに狐の絵を貼り付けて置くとよいと思う。

 私は稲荷とは相性が合わず、必ず忌避する。

 死後の私は、誰彼構わず「深夜、玄関の扉を叩く」ことから始めると思うが、絶対に開けてはダメだ。(そもそも強盗かもしれんので開ける人はいないだろうが、昼の可能性もある。)

 稲荷のお札や狐の絵を貼って置くと、「ひとの心の中の欺瞞を暴いて祟りをなす者(私が変じた悪縁)」が入って来ない。

 私の話は別として、稲荷のお札を掲げるのに最も有効なのはこの位置だろうと思う。破魔の役割は魔に託す方が良い。

 さて、何気なく鬼門封じの見本を示すために当家のそれを撮影したら、煙玉が出掛かっていた。この後、煙がきゅうっと中心に集まり玉になる。煙玉の周縁が多く放射状になるのはこのためだ。

 以前は、夜中に自宅廊下を撮影すると、煙玉がバラバラと出た。あまり気色が良い話ではないので、TPOを外すわけだが、それだけで写らなくなる。ま、身近な場所は撮影しないことが望ましい。出ても気分が良くなることは無い。

 

 命の期限を切られることには幾らかショックを受けるが、逆によいこともある。

 その筆頭は「迷いが無くなる」ということだ。

 身体の限界が来ているなら、次回の「死期の延長」は無いわけだが、それでも執着心をスッパリ棄てられるし、粛々と己が為すべきことを進められる。

 元々、試験の数日前にならんと勉強を始める怠惰な性格だったから、ちょうど良さそう。

 生活状態にもよるが、短編ならあと何本か書ける。しかも「命を振り絞って集中できる」というところがポイントだ。