日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第1114夜 セイレーン

夢の話 第1114夜 セイレーン
 二十八日の午前二時に観た短い夢です。

 我に返ると、俺は列車の中にいた。
 膝の上には茶封筒が載っている。
 「そう言えば、原稿を届けに行くんだったな」
 業界紙の編集部に直接、原稿を手渡しに行くところだった.
 送信の場合、電気信号にはエラーが生じ、文字が化けることがある。全体の文字化けならそれと分かるが、一部について、あるいは単語単位でも起きるから、正確さが必要なリポートはメモリを手渡しで渡す。
 ちなみに、計量ソフトなどを使用すると、たまに計算ミスが起きる。「PCが間違うわけはない」というのは認識不足と言うより経験不足で、数千回の計算でもエラーが生じることがある。機械を信用したらダメだ。これは仕事で大量の官庁統計を扱っている時に実際に確かめた話だ。

 窓の外に駅構内の景色が広がる。
 見知らぬ駅だった。
 「イケネ。乗り越したか」
 慌てて、開いた扉から外に出た。
 ところが、駅名がこれまで聞いたことの無いものだった。
 「こんな駅はどこにもないぞ。一体何線に乗っていたのか」
 漢字ではあるが、もしかしてここは日本では無いのかもしれん。
 そんな気がした。

 駅の外から「うーうー」とサイレンの音が聞こえて来た。
 すぐ近くで事故でもあったのか、次第にサイレンが近づく。
 「あああああ、ああああああ」
 この音がことのほかア大きく、それを聞きながら眼が覚めた。

 眼ざめた私は、居間で寝袋に入って横になっていた。
 ゆっくりと目覚めるが、サイレンの音はまだ聞こえていた。
 「ああああああ、あああああああ」
 頭が冴えて来て、ここで現実に気付く。
 「これはサイレンの音じゃないぞ。女が叫んでいるのだ」
 歌のような「ふし」があるから、もしかするとこの女は歌っているのか。
 コイツは到底、生きた女の声じゃないな。
 「体が氷のようになる」という陳腐な表現があるが、たちまち私の体はそんな風に冷たくなった。

 あの世には二つの方向がある。
 トンネルを出ると、右側には川があるが、これが三途の川だ。これを渡ると、それまでの自我がすっかり解放され、自意識がなくなる。
 左手には細道があり、そっちを進むと峠に入る。
 これが「死出の山路」だ。暗い山道を進み、向こう側に降りると、この世と同じ街がある。生きていた時と寸分たがわぬ街並みなのだが、どこか違う。自分の記憶を基に構成される街で、現実のそれと似ているが少しずつ違う。
 その街は主観的に構成されているのだった。
 この世界では、己の観たいものが観たいように見える。
 己自身も、自らが思い描いた姿になる。
 醜い心根を持つ者は、ここではバケモノのような姿になるのだ。
 そこにいるのは自分だけではなく、他の者も同居するが、それぞれが自分の思い描く世界の中で暮らしている。
 接点が生じることもあるが、各々が己なりの受け止め方をして解釈する。
 この世界は現実世界(現世)とも重なって存在している。
 この世界で暮らすことが、すなわち、「幽霊になる」ということだ。
 叫ぶ女はこの世界の住人で、ただひたすら金切り声で歌い続けている。歌うことに取り憑かれているから、やめられない。

 私はかつて一度、心停止を経験したことがあるが、その時には、我に返ると、自分が運び込まれた病院のロビーにいた。
 ロビーには長椅子があり、そこには父が座って、救急隊員の話を聞いていた。隊員はしゃがみこんで、父に状況を説明していた。
 この後の記憶は途切れ途切れだが、少し外の街の様子を見た記憶もある。自分が住んでいる街と、まったく同じ街並みなのだが、しかし、尋常ならぬ違和感があった。

 後で聞くと、映画で観るような「医師が患者の心臓マッサージを施す」時間が数分間あったそうだ。そこはほとんど記憶がないのだが、医師の隣でそういう自分を眺めていたような気もする。

 それ以来、時々、峠の向こうの世界に入り込んだのかと思うことがある。
 この夢の後では、完全に覚醒した状態なのに、歌声がはっきり聞こえていた。
 もしその歌声のする方に行けば、たぶん、声の主に会えたと思う。だが、それは絶対にやってはダメだ。
 その声は「自分と同じ波長を探るためのもの」で、聞く者、聞こえる者の有無をそれで測っている。「撒き餌」と言い替えても良い。
 もしそれが聞こえ、自分に近づく者があれば、その女はその相手に飛びつく。
 外国の神話に出て来る「セイレーン」と同じ存在だ。

 あの世では自己を再確認するための五感を持たないから、時間と共に自我が次第に崩壊して行く。誰しも死にたくないわけだが、あの世での「死」は「自意識が無くなる」ということだ。
 これが怖ろしいので、あの世の住人(幽霊)は、周囲の「自分と似たような感覚を持つ者」を取り込むか、生きている者の心の中に入り込む。

 実は逆方向の「三途の川」自体も、主観的に構成されたものだ。昔話や誰か別の者の体験談などを耳にし、知識があるからそういう風に見える。よって、この知識を持たぬ者には違って見える。こういう外形的な見え方は何でもよい。
 「川を渡る」ことの意味は「自我を捨て去る」ことだ。
 その後は断片的な感情の記憶に分解され、これを再結集させることで、新しい人格(自我)の基が出来る。

 私が死ぬと、たぶん、「山路」を越える道を進む。
 そこが「幽界」だ。
 まだ死んではいないのだが、既にその道に入っていると感じる。
 ひとの心には、邪悪で怖ろしく、醜悪な部分がある。
 「幽界」はそういう心の主がいるところで、これで「死後の世界」に関する総ての説明がつく。

 

追記)心停止していた間に起きたこと

 私の心臓が止まっている間、救急隊員は「息子を失おうとしている父親」を慰めていた。
 「若い人の中には突然心臓が止まる人が時々いるのです」
 もはや私は「死ぬ者」の扱いになっていたのだ。
 (私はすぐ傍でそれを見ていたが、この間、生身の当方は医師にべこべこと心臓のマッサージを受けていた。)
 あとになり「救急隊に慰められたか?」と父に訊くと、「そういうことがあった」との答えだった。

 心臓が動き出してみると、全然平気になっていた。痛みも苦痛もまったくない。
 朝までベッドに横になっていたが、軽い診察を受け、そのまま歩いて家に帰った。
 私が一番ツイていたことは、「たまたまその日は父親が泊まっていたこと」と「消防署も救急病院も数百㍍の範囲にあったこと」だった。
 だが、その後の人生では、死生観や人生の価値観がガラッと変わった。