日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「巫女さまは何時から?」

◎霊界通信 「巫女さまは何時から?」

 私に危機が訪れた時に、陰になりひっそりと支えてくれるのが「巫女さま」だ。

 ちなみに、これは想像ではなく現実だ。幾つか証拠が残っている。

 ともかく、画像の中からそれらしい人影を時系列的に拾ってみる。

 

①宿谷の滝(2016年6月5日)

 かつては、滝に向かう山道の半ばに「穴」があり、煙玉が乱れ飛んだ。

 他に見物客がいない時でも、常にひとの声が聞こえていた。

 この頃、撮影した画像の中に、渓流の中に女性の眼が写ったものがある。

 私は巫女さまの眼を直接見たことがあるが、よく似ていると思う。

 だが、この渓流の眼の持ち主は、十七八の若い女性のように見える。

 巫女さまは二十台の半ばから三十歳の間に見える。

 ちなみに、記念写真として撮影したが、最初に気付いたのは男児の存在だった。

 眼の右側に立っていたのだが、その男児を見た時に視線を左に移したら、この目があった。こういう画像は時の経過と共に薄れるので、いまではほとんど分からなくなった。 

 何時も声が聞こえていたが、その中のひとつは「自分は高校生だったが、都心に遊びに出たら、そこで男に捕まり、別荘のようなところに連れて行かれ、そこで殺された」と言っていた。北関東のどこかで育った娘のようだ。まだ発見されていない筈で、今もどこかの別荘の床下に眠っていると思う。

 

 この地にあった「穴」(この世とあの世の交流点)は一年くらいで消えた。

 穴がある時に、家人が不用意にその方向に近づこうとするので、「そっちに行くな」と厳しく伝えたことがあるほどだが、今は何も起きず、声も聞こえない。

 

②御堂観音(2017年7月27日)

 これは幾度もこのブログに書いた。

 国道を南下中に持病の筋膜腫が痛み出したが、岩手町の御堂観音に差し掛かった。

 すると、「ここで湧水を飲めば病気が治るよ」という声が響いた。

 その声に従って、神社に参拝し、「ゆはずの泉」の水を飲んだが、痛みがそれで治まった。(筋膜種自体がその後数か月で完治した。)

 この時撮影した画像には、様々な者が写っていたが、草の陰から女性がこっちを見ているものがある。年格好は巫女さまに似ているが、こちらは矢巾の人だったらしい。(本人がそう言っていた。)

 その後、上京する折に、カーナビが勝手に作動して、矢巾町墓所に連れて行かれた。高速に乗ったのに「降りろ」という指示があり、導かれるまま進んだら、その先が古い墓地だった。そこで、お茶を供えて、ご供養をした。女性は親族の許に帰りたかったのだ。

 国道で最初に声を掛けたのは、七八歳の子どもの声だったから、これもこの女性とは別だと思う。子ども、草の間の女性、巫女さまはそれぞれ別だ。

 ちなみに、日輪のような玉が写った画像があるが、カメラのファインダを下に向けてもこれが見えていたので、日光がレンズに反射した像ではないと思われる。いわゆる「光玉」だ。奥行きがあり、濃淡も違うから、実際のところ日輪とは出方が違う。 

 

③小鹿荘の眼(2019年1月13日)

 小鹿野町の小鹿荘は、いまや私にとっては聖地のひとつ。

 つい最近、この画像の右下に女児が写っていることに気付き、もう一度女児に会うために小鹿荘を訪れたのだが、そこでもきちんとこの子が現れた。前に報告した通りで、「着物にちゃんちゃんこ」を着た姿がすっかり同じなので、同じ女児だと思う。

 この画像には、上の方に「女性の眼」が写っていたので、下部にいる女児のことまで気が回らなかったのだ。

 女性の「眼」の方は、年格好が巫女さまに合致しているし、私にとっては「福の神」でもある女児に近い存在らしいから、あるいはこの女性かもしれぬと思う。

 だが、実際の巫女さまの視線はもっと冷徹で、むしろ最初の滝に出た「眼」に近いと思う。

 もっとも、あの世の者たちは、感情の持ち方が生きている者とは違うので、どの幽霊を見ても一様に怖い。悪しき者でなくとも、何とも言えぬ迫力を放つ。

 

 

 ここでさらに気付かされたが、もしかすると、御堂観音で私に声を掛けたのは、このちゃんちゃんこの女児かもしれぬ。そもそも、かなり前から私と一緒にいる者かもしれぬのだ。この子の表情は父や祖母に似ている。

 「ガラス窓にはあの世が映る」ことに気付いたのは、割と最近のことだから、数十年前にさかのぼることは出来ないのだが、探って行けば巫女さまや女児(お稚児さま)がどういう経緯で傍まで来るに至ったのかが突き止められるのではないかと思う。

 「自分が助けられていることに気付いた」ことさえ、最近の話だ。

 

 さて、ここで明言させて貰うが、「あの世(幽界)は皆さんがこれまで知識として持っているものとは全然違う世界」だ。宗教も霊能者もごく一部の断片的なことを見て、大半を想像で語っている。多くは恐怖を伴う話なのだが、それは「何ひとつあの世の実相が見えていない」ということだ。目前の現象面だけ見て語っている。

 程なくそれを実証して見せようと思う(あの世が何かを出して見せる)が、最大の問題は、「私の余命がこの先どれくらい残っているか」ということにかかっている。

 また、巫女さまたちのように支援してくれる者もいれば、「稲荷眷属の僧侶」や、今回の「短刀で一刺し」のように妨害しようとする勢力もある。事実を見せぬ・知らせぬことで恐怖心をあおるのだが、恐怖心は悪縁がひとの心を支配する重要な武器になっている。