日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「想像や推測の一端」

「想像や推測の一端」

 第六感(霊感)は能力ではなく、「想像や推測の一端」に過ぎぬと言う。私なりに言葉を加えると、「想像や推測の一端であり、妄想」だが、時々、現実に結びついていることがある。

 ただ、そういうこともある・時もあるという程度だ。「この世」と「あの世」はそもそも成り立ちが違うので、並べて見ても仕方がないし意味がない。

 例えて言えば、「この世」が「振る舞い」なら、「あの世」は「こころ」の世界だ。その人の振る舞いと、心中が必ずしも同一でないことは誰でも想像がつく。

 

 昨年一年間の苦闘で、幽霊の「触感」が何となく分かるようになった。それと共に、ものの見え方も変化したが、ひとは総ての記憶を正確に保持しているので、過去の一時点の状況についても、改めて見直すことが出来る。

 さらに、その時点の「触感」を思い出すことで、視角や聴覚に留まらぬ眺め方がで見るようだ。

(ここで念を指すが、これらもあくまで「想像や推測、そして妄想」の一端だ。「能力」などではないので、念のため。)

 

 そこで、過去の画像を取り出して、改めて見直すと、前には分らなかったことが分かるようになっていた。

 掲示の画像は、岩手の御堂観音で撮影したものだが、ここでの経験は今に繋がる分岐点のひとつだ。

 この年の夏に、この近くを車で走行中に、「女」の声に呼び止められ、この神社に参拝した。言われるまま、泉の水を飲むと、持病の筋膜種が治った。(かなり後で気付いたが、ついでに慢性膵炎も治っていた。)

 その時には、「煙玉(オーロラ玉)」やら「幽界の霧」やら、「人影」がパレードのように現れたので、以来、この地を訪れる度ごとに、泉の水を飲み、写真を撮っている。

 この地に住む人や、一般の参拝客には、ごく普通の神社なのだが、私には所縁・宿縁があり、共鳴するようだ。

 

 この画像はそれから半年後の冬に撮影したものだ。記録が消失したので不確かだが、たぶん、それくらいの時期だと思う。

 その当時は、ほとんど状況に気付かず、雪に埋もれた草の陰に「女」がしゃがんでいることだけ見取っていた。

 今、改めて見ると、その時に感じ取った通り、沢山の視線がこっちを向いている。

 これは、最後の図で示した通り、左いての空中に「穴」があったからのようだ。

 「穴」はこの世とあの世の結節点のことで、言わば交流地点のようなものだ。便宜上、「穴」と表記するが、球体に近く、目には見えぬが圧力を放射状に放出している。

 私は一般の水準よりも幾らか可視域が広いようで、この周辺の光が少し歪んで見える。

 ガラスに映った景色では、目視で「は歪んでいない景色をカメラで撮影すると歪んで写る」という現象が起きるが、これと同じことが目視でも起きる。

 たぶん、可視域の広い人は、私同様に、視界の中を走る光や影、そして人影を見ていると思う。

 

 いつも見ていると、次第に「見方」を習得する。よって、より一層見えるようになる。そしてこの一年で、それに「触感」が加わった。

 逆にいくらかコントロールも効くようになるらしく、今は暗闇への恐れが小さくなった。

 幽霊は赤外線の反応(±)があるが、赤外線は熱線だから、気温の低い秋冬や夜間には検知しやすくなる。

 総てリーズナブルに出来ている。幽霊の住む世界(幽界)は物質的に構成される世界であって、精神世界ではない。

 言わば「こころが独立して存在する世界」となる。

 そしてこれに加えて言えば、「こころは主観的に構成されている」ことで見え方が人によりかなり違う。

 

 少し分かりやすい事例を挙げる。

 雪の中に「着物を着た女」が立っているのだが、これは殆どの人には検知出来ない。私はこの者の何かしらの縁者で「触れられたことがある」ので、その触感により存在を認知できる。

 この「女」との関りを遡ると、半年前に訪れた時に顔をのぞかせた「女」と同一人格のようだ。

 背後に強力な悪縁が立って押さえつけているので、この「女」は長らくここから出られなかった。

 

 この雪の日からさらに幾度かの参拝を経て、何か月かの後に、ようやく抜け出られたらしい。

 私が国道四号線を走行中に、カーナビが急に郷里の実家とは異なる方向を差し、矢巾という町の墓地に案内した。

 後部座席に誰かが乗っていると分かったので、墓地の前でドアを開き、その「誰か」を下ろした。

 その時にも何となく「御堂観音にいた女」だと思ったのだが、やはり夏に草葉の陰から、また雪の日に、雪の間に立ち私を見ていた女だった。

 観音参拝に赴いた女が急病で亡くなったが、すぐに悪縁に捕まり出られずにいた。たまたま存在を認識出来る者(すなわた私)が通り掛かったので、幾度目かに私の左肩に手を掛け、その地を脱出した。

 一緒に悪縁も出て来たが、縛り付けられる関係ではなくなった筈だ。

 もちろん、こういう因果を語るストーリーは、総て「想像や推測、そして妄想」の産物だ。

 私は直接的に「女」と関わりを持つ者なので、それなりの意味があり、また現実との繋がりが生じる。

 これは例えば、「声を掛けられる」、「カーナビが勝手な方向を指示する」と言った出来事を指す。

 

 一つひとつの真偽は当事者自身が確かめればよい。

 そもそも当事者以外には意味を持たぬ出来事だし、嫌と言うほど繰り返すが、総てが「想像と推測、妄想の産物」だ。

 

 「死後の存在」に疑問の余地は無いが、それはいまだ人間にとっては未知の領域だ。

 私にとってより重要なことは、「幾つかの持病が治ったこと」と、「死期の早まることを防ぐ手立てを知る契機になったこと」だ。

 

追記)たまたまこの年の画像の中に、「何故に取り置いたか分らぬ」ものがあった。

 ただポロンと保存していたが、何故保存したのかが分からない。

 そこで、改めて調べてみたが、なるほど「何となく触感を覚えた」ということらしい。

 私の左肩付近には「女」が手を掛けている。これは当時に遡って思い出すことが出来る。(今、左肩がむず痒い。)

 ガラス窓の左側には、僧侶風の着物(袈裟?)を身に着けた大男が立っていたようだ。これらは、ほんの「蜘蛛の糸」程度の感触なので、画像を拡大しても判然としない。

 ま、当人がそれと分かり、自己の心身の調整に役立てられればそれで良い。

 他の人にどう見えようが、そもそも「あの世は主観的に構成される」という一面があるから、他者には理解出来ぬ・通じぬところがある。