日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎仏心も三度まで(562)

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令和三年二月一日撮影

◎仏心も三度まで(562)

 自然水療法を実践しているが、ストックが無くなったので、湧き水まで汲みに行くことにした。

 水道には数人の人が並んでいたため、十分ほど前で待った。

 私の順番が来たので、蛇口を捻ると、背後に「気配」を感じ取った。

 現実には私の後ろに人はいない。

 すぐにそれと気づき、一旦、車まで帰ることにした。

 

 車に入るのは、声に出して語り掛けるせいだ。空気に向かって話すところを周りの人が聞いたなら、「コイツは危ないヤツだ」と思われてしまう。

 だが、対話は声に出す必要がある。心の中で念じても、相手に伝わらぬのは、生きている人も死んでいる者も同じことだ。

 ドアを閉めてすぐに話し始めた。

 

 「お前が傍にいるのは知っている。どんなに隠れようと、姿を消そうと、必ず気配が現れる。何かを仕掛けようと思っているのかもしれんが、こうやって優しく諭すのは三回までだ。こういうのを続けるなら、俺は敵になるよ。お前は幽霊を何百と従えているかもしれんが、俺の背後には三十万を超える亡者が居る。俺を敵に回せば、俺だけでなくそいつらが黙っていないぞ。敵とするか、こちら側の仲間になるか、よく考えることだ」

 多少、芝居掛かった文章だが、しかし、考えたことをそのまま口にする必要がある。何かしら反応を引き出すことが重要で、それが現状打開のための糸口になる。

 

 まずはコイツの正体を確かめる必要がある。

 このところ、撮影環境が整わずに鮮明な画像が撮れなかったのだが、そういう時には赤外線ライトを使えば、少しは見えるようになる。

 車にはその器具を積んでいるので、それを持って神社に行くことにした。

 

 参考までに、カメラを使うと赤外線がどのように見えるかを例示して置く。

 肉眼では、赤外線はほとんど見えぬが、カメラを通ると「青白い光」として写る。周囲が明るいと「白く」写る。これは背景色を替えても同じだから、光そのものの色になる。

 端の方に眼を遣ると、時々、写真の隅に入るあの「煙」と同じように白く写る。

 

 赤外線カメラを使うと、煙玉や人影といった素材がやたら増えるので、一年くらい前から使用しないようにしていた。だが、背に腹は替えられない。

 最初の画像で見る通り、私の前後とも誰もいないのに、窓ガラスの中、私の右前にはマスクを掛けた女性が映っている。

 今の時勢を反映しているようだが、あの世の住人は、その場にいる者や、少し前にいた者に「外見を近づける」傾向があるので、この一年内に亡くなった者だとは断定出来ない。

 この件を含め、いちいち確かめ、言及して行くと数がやたら増え、論点がぼやけるので、今回は省略するものとした。

 

 次の画像には、撮影直後にドキッとさせられた。

 画面の右下、かなり遠くに私がいるのだが、普段見ているものと違う光景が見えている。

 この時は、右手でカメラを持ち、左手は赤外線ライトを「後ろに向けて照射した」。

 私の周囲を拡大してみると、私と私の背後にある柱の間に白い着物かガウンを着た女性の胴体が見えているようだ。

 順次拡大して行くと、どうやら見間違いではないようだ。

 ウェブ画像でどこまで見えるかは分からぬが、最後の拡大画像では「襟の合わせ目」が見えている。となると、やはり「着物(かローブ)」を着ており、髪が胸元までの長さの女性だろう。

 

 「おお。これはO町のあの女性だ。御堂さまを最近見ぬと思っていたが、きちんと見ていてくれたか」

 この女性は、最初、岩手県の御堂観音を訪れた頃から現れ始めたので、私は他と区別するために「御堂さま」と呼んでいる。

 ヒヤッとする出来事があった時には、必ず御堂さまが姿を現すし、トラブルがすぐに収束する。よって、けして敵側ではない存在だ。

 右手は胸のところにあり、拝む時の仕草をしている。左手は私の背中の肩甲骨の辺りにある。その辺が温かかった。

 

 「御堂さまが出て来たということは・・・」

 二日前の「大きな女」は、想像でも妄想でも「ただの夢」でもなく、現実そのものだったようだ。やはりあの女は悪意を持つ存在だ。

 いざという時に備え、御堂さまが出て来てくれた、ということだろう。

 そのことを悟ると同時に、今度は体全体がもの凄く熱くなった。

 

 ところで、「あの世(幽界)」には「守護霊」などというものは存在しない。「指導霊」など「ナニナニ霊」という分類呼称はあまり意味が無い。便宜的に「憑依霊」が使える程度。

 「あの世」には「社会」が無いのだから、見守ったり指導したりする関係は基本的に存在しないことになる。いつも記す通り、「もしそういうのが存在するなら、人間社会はもう少しましなものになっている」筈だ。だがそうではなく、いつも同じことの繰り返しだ。

 ただ、自ら手を差し伸べ、意図的に関係を作り上げることは出来るのかもしれぬ。

 それには、まず相手を知ることが最初の段階だが、殆どの人は目を瞑り、耳を塞いでいる。そんな姿勢で、「あの世」との健全な交流など生まれるわけがない。

 

 「あの世」での私は、疑いなく「暗黒面」の側だと思う。それに類する内容の夢を何百回となく観る。夢の中では、姿かたちの醜い亡者たちの先頭に立ち、彼らを先導している。

 だから、本来は「大きな女」やアモンと同類だと思う。

 実際、「数十万人ほどに死んで貰って、亡者の隊列の後ろに並ばせたら、さぞ壮観だろう」などと無意識に考えていることがある。

 ひとの心根は醜いから、上っ面を剥がしてその本性を剥き出しにすれば、きっとスッキリするだろう。

 だが、「御堂さま」はそういう指向(志向)を持たない。

 「あの世」には「善」も「悪」もなく、それとは異なる別のルールがあるのだが、「暗黒面」の側とは存在意義の違う対極があるのかもしれん。

 この辺はまだまるで分からない。

 

 二日前の夢では、居間の真ん中に「大きな女」が立っていた。

 「ただの夢ではない」と思ったので、三日続けて神社を訪れたのだが、実際に「ただの夢ではなかった」ということだ。

 「御堂さま」が私の背中に手を当てていたのは、「けして相手を挑発するな」という意味だったのだろう。確かに、そういうことは、日頃より私が「そういうことをしてはならない」と書いている振る舞いになる。

 幽界の住人に対しては「敬意をもって、丁寧に意思を伝える」というのが大原則だ。

 

 つい好戦的な振る舞いをしたのは、あの「大きな女」が異様な姿をしており、恐怖心を覚えてしまったからだ。

 恐怖心は眼を曇らせ、人を極端な方向に走らせてしまう。

 しかし、冒頭で記した通り、「瞼を開き、耳を欹てる」ことを怠らねば、現状の打開策を見出すことはそれほど難くない。