日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎まずは先手必勝(561)

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令和三年一月三十一日撮影

◎まずは先手必勝(561)

 昨日、少し引っ掛かるところがあったので、この日も確かめに行くことにした。

 少しでも悪縁の可能性があれば、早めに取り除いて置くに限るからだ。

 「気のせい」でスルーした後、思わぬ面倒ごとに発展することはよくある。その時に「あの時、きちんと対応して置けば」と後悔したところで何も変わらない。

 判断間違いであれば、何事も起きないし、判断が正しければ対処が必要になる。それなら、前もって対処法を考えて置けば、あらゆる場合に対応可能となる。

 それが本物かどうかなどと考える時間があれば、対抗策を考える方がはるかに有益だ。

 

 気が急いていたので、神社に着いた時はまだ午前中だった。

 駐車場は、空きスペースを探すのが厄介なほど混雑していた。一月末日で、何か行事があったようだ。

 御朱印でも貰えるのかもしれん(不確か)。

 

 神殿前も人が出入りしており、丁寧に撮影するのは難しそうだった。

 カメラもコンパクトデジカメで、普段、携帯するのとは違う。

 「ま、今日は仕方ない。また数日中に来よう」

 自身が入るように撮影出来たのは、一二枚だけだった。

 撮影のタイミングとしてはやはり早かったようで、日光が後ろから差していた。

 これでは前面が陰になるから、そもそも撮影に不向きな照射角度になってしまう。

 画像を開いて見たが、やはりTPO的には難しい条件だった模様で、昨日に引き続き、極めて不鮮明になった。

 

 「幽霊の姿を見る」ことについて、前提となる条件はこれ。

 幽霊は可視域の外にいることが多いから、肉眼ではほとんど見えない。

 光学環境が変わり、光の照射角の条件が整うと、姿が見えることがある。

 肉眼より、カメラの反応域の方が広いので、「眼では見えぬが写真に写る」ということがよく起きる。

 ちなみに、赤外線については、人によって普通の人より幾らか可視域が広い人がいるが、そういう人は暗闇の方が幽霊の姿を捉えやすい。赤外線はいわゆる「熱線」で、熱を持つからのようだ。

 

 画像を例示したが、割と判別しやすいのは、四枚目左上の女性だ。

 木々の前に半透明の女性のシルエットが浮かんでいるが、二箇所に「眼」が開いている。

 幽霊の本質は「煙」で、私が「幽界の霧」と呼んでいるものだ。これが実体化して、人の姿に変わる。

 幽界では「こころ」がそのままかたちとなって現れるので、「眼」は要するに「こちらを見たい」「見よう」と思っているということになる。

 いわゆる心霊写真では、丹念に探すと、大半の画像のどこかに「眼」が開いている。

 ちなみに、この女性は恐らく自死した者で、両眼が飛び出ている。

 目覚めるまで長く掛かったろうが、ここまで来られれば、現状から抜け出すのもそう遠くない。

 

 私自身を見付けられるのは、三枚目の画像一枚だけになる。

 予想通り、私の後ろには黒い影が立っている。フラッシュ光の位置が私の顔の位置だから、影はそれよりかなり大きい。

 一つひとつの素材や情報は、朧気で不確かだが、少しずつ符合するところが垣間見える。

 とりわけ、私は昨日も「常人より頭が三つ四つ上の位置にある」者を見ている。

 それが、すなわちあの「大きな女」だ。

 

 「大きな女」は悪霊のアモンに匹敵するほど、悪意に満ちている。

 コイツに関わられると、かなり厄介だ。

 この「女」は目視でもはっきり見えるほどの強い悪霊だから、コイツに会ったら「とりあえず避難する」のが一番だと思う。

 ただ、今のところ先方の意図が見えぬから、ひとまず様子見になる。

 ま、妖怪顔のアモンでも害を及ぼすことは無いから、一概に「敵」だとは言えない。利用するだけ利用しようという腹積もりなのかもしれん。

 もちろん、昨日の起床時に「こちらに少しでも手を伸ばせば戦う」とは宣言してある。

 

 昨日今日と、ほとんど他人には判別のつかぬ画像ばかりだ。

 私は幾度となく同じものを見ているから、瞬時に「これはあの時のヤツ」と判断出来るのだが、それも先入観によるものかもしれぬ。

 ま、近日中にはっきりするしさせられるとは思う。何せ命が懸かっているので、文字通り懸命に対応する。

 繰り返しになるが、それが「確かなもの」か「不確かなもの」かを熟慮している暇はない。まずは、そこに危機が存在するということを前提に対処する必要がある。

 「お迎え」を目の当たりにしたのは、もはや五年以上前のことだが、その後も生きて来られたのは「常に対応が早かったから」ということだろう。

 「あの世(幽界)」には、「人知の及ばぬもの」が現実に存在している。