日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎時間の経過と共に変化する

f:id:seiichiconan:20200408115812j:plain
f:id:seiichiconan:20200408115758j:plain
f:id:seiichiconan:20200408115745j:plain
宿谷の滝で撮影

◎時間の経過と共に変化する

 時々、画像の中に人影や視線など、「説明の困難」なものを発見することがあるのだが、撮影時から一二年すると、「説明のし難い画像」が「ただの画像」に変化する。

 撮影時には、音(声)も聞こえているのだが、時の経過と共にそういう「声」が聞こえなくなるためだ。そうなると、視覚的に見えたものだけで判断する・出来るようになるから、異常性がかなり減る。

 「宿谷の滝」はいわゆる「霊場」のひとつだ。

 最初に下見に行った時から「かやかや」と話し声が聞こえていた。次に家人を連れて行くと、家人にも「かやかや」という小さな話し声が聞こえる。

 ごく自然に聞こえるので、「遠くに他の見物人がいるのだろう」と見なすのだが、滝まで行き、周囲を回るが、人は一人もいない。

 帰宅して画像を開くと、渓流の中に私を見る「眼」が写っていた。

 生気の乏しい死人の目で、心が感じられない。温もりが無いのだ。

 

 当初は多少、ドキッとするのだが、私も家人もそういうのは気にならない方なので、この地は幾度も訪れている。割と近くだし、景色も美しい。

 訪れる度に「何かしらの異変」を発見した時期もあったが、四五度目以降はほとんど起きなくなった。

 最近になり、「一体、何が変わったのだろう」と考えたが、よくよく思い起こして見ると、訪問の度に「ご供養をしている」ことに気が付いた。

 鎌北湖にせよ、大亀沼、名栗湖にせよ、最初のうちは「声」が聞こえ、画像に人影や視線が写ったのだが、訪問を重ねるうちに次第にそういう異変が消えて行く。

 そんな変化を生じさせるのは、やはり「丁寧にご供養をしている」ということの効果なのだろう。

 考えようによっては、あちこちを訪れては、その地その地を「浄化している」と言える。

 私は典型的な「変わり者」だが、多少は世間の人に感謝されても良いと思う(笑)。

 

 画像は、宿谷の滝を訪れた初期(たぶん二回目)に写った「視線」と、昨年の「人影」だ。後者は「ほおお」「ほおお」のような声が聞こえていたのだが、今は思い出せない。そうなると、「ただの画像」になるから、「気のせい」「錯覚」に思えて来る。

 「気のせい」や「錯覚」なら、心を惑わされることも無い。

 いつもそう思えるようなら、平穏に暮らしていける。

 何も聞こえず見えず、「そんなものはありはしない」と思える状況が、実は最も幸福な状態だ。

 いずれ死期が迫れば、否応なく「あの世(幽界)」の存在を感じることになるのだろうから、若く健康なうちは慌てて近づくことはない。

 

 ところで、画像は出して見せられるが、「音」は常時録音していないと記録できず、かつ人の耳が聞こえる波長域に変換する必要がある。「声」を説明し、この方面から存在を証明するのは、かなり難しい。

 

 ちなみに、霊場として名前を上げた箇所があるが、そこを訪れても、何ら問題は生じないので念のため。多少、敏感な人なら、入り口で「入らせていただきます」と断るとよい。繰り返し書く通り、「常に敬意を示すこと」「無用な怖れを抱かぬこと」を守れば、何ひとつ問題など生じない。

 ことさら「死者(幽霊)の恐怖を語る」のは、総て偽者。そういう者の言葉を信じてはいけない。 大体、「霊(幽霊)はこういうものだ」と出して見せられる者はほとんどいない。

 人は死ねば必ず幽界に入り幽霊になる。いずれ自分自身がなるものを怖れることほど愚かしいことは無い。