日刊早坂ノボル新聞

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◎時間の経過と共に画像が変化する

20150804撮影

◎時間の経過と共に画像が変化する

 「あの世」画像の特徴のひとつは、時間の経過と共に画像が変化することだ。

 掲示の画像は2015年8月に宿谷の滝で撮影したもの。

 既に繰り返し観察し、幾度も言及して来たので、詳細は省略する。

 この年から一年間程度、この地にはこの世とあの世を繋ぐ「穴」が出来ていたようで、度々、画像に異変が残った。

 後になって分かったことだが、左側の手前に橋があるのだが、それを渡り山に分け入ったところに「穴」が出来ていた。

 これが判明したのは、犬二匹を連れた見物人がその橋の前を通ろうとした時に、犬たちがぴたっと足を止め、主人がどんなに引いても動こうとしなかったことだ。

 犬たちはただ一点を見詰めたまま、その場に固まっていた。

 それが掲示画像を撮影した数か月後のことだったので、その時にようやく「穴」の所在に気付いた。犬たちは「穴」から出て来る「人の眼には見えぬ人影」を見ていた。

 

 画像の異変に気付いたのは、川辺に子どもの立つ姿がはっきりと見えたからだったが、その子どもは程なく完全に消失した。

 不審に思い、子どものいた辺りに眼をやると、水の中に女性の左眼が開いていた。

 この視線には生きている者の持つような感情が無い。温かみを全く感じさせぬ死者のまなざしだ。

 ただ、時間の経過と共に、かたちがぼやけて来たように思う。

 

 左上には複数の人影が見えていたが、今は草木の中に埋もれて来た。異なるメモリ媒体に画像を保存していたが、改めて比べてみると、片方の画質が落ち、また鮮明な方は景色の中に溶けてしまった。元は同じ画像だ。

 画像だけ見ると、「目の錯覚ではないか」と思う人がいると思うが、この時には「声」が聞こえた。入り口から滝までの間に見物客がひとりもいないのに、少し離れた方角から「かやかや」「ぼそぼそ」と話し声が響いた。

 ここは「聞こえたような気がする」ではなく、事実として「聞こえた」だ。私と同時に家人も同じ声を聞いている。

 

 家人はあまりこの手のことを気にしない方だから、一度、あの地点を分け入ろうとしたことがある。その時はさすがに私は慌てて制止した。

 「そこから先には行くな。帰って来られなくなるぞ」

 私は生まれつき、この手の直感が働く方で、頭で考える理屈より直感を優先することにしている。

  家人はぎりぎりセーフかもしれぬが、私はある瞬間にパッと消えてしまう方の立場だろう。時々、多くの人が見ている前で消失する人がいるが、その中にはこの手のことが混じっている。そして、そういう人はそもそもあの世との接点を持っている。 

 

 もちろん、殆どの人には何ら影響がない。「あの世」に関わる出来事は、人を選んで起きる。よって多くの人にとっては、死後の存在など意味がない。

  当たり前だが、それには「少なくとも死ぬ時までは」という注釈がつく。

 事前に予期していない分、「その立場になって初めて分かる」のではさぞキツいだろうと思う。だが、見えぬし聞こえぬのだから、実感が湧くはずもない。

 ひとは空気の存在をほとんど意識せずに暮らしている。それと同じ。

 

 ちなみに、数年前に「穴」は閉じたようで、今では風光明媚な観光スポットだ。

 時々、この地を訪れるが、さしたる異変は起きぬし、「声」も聞こえない。

 そのことが分かったので、今では普通に地名を書ける。

 夏には蟹取りに多くの家族が訪れるが、自然保護という観点からは、あまり生き物を採取せずに「見て楽しむ」のが良さそうだ。