日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎TPOが変わる(627)

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令和三年十二月二十五日撮影

◎TPOが変わる(627)

 例年、十二月頃は「あの世」が最も騒がしくなる時期になる。

 行く先々で「声」が聞こえるし、写真を撮ると、必ず異変がかたちとなって残る。

 ところが、今年はそんな出来事が殆ど起きない。

 夜中に玄関のドアを叩くノック音も響かない。

 

 先月末頃に気付いたが、こういう変化の理由として考えられる事態のひとつは、「窓(穴)が閉じようとしている」ケースだ。

 あの世との接点が生じている地は、ずっとそのままの状態を保つわけではなく、時として開いたり閉じたりする。

 宿谷の滝や鎌北湖がそうで、一時、もやもやと気配が出ていたのが、ある時期を境に異変らしい異変が起きなくなった。あえて地名を記すのも、今ではもはや「スポット」ではなくなったからだ。

 宿谷の滝の「穴」は入り口から数十メートルほどの左側にあったが、犬たちが足を停め、その方向を凝視したまま動かなくなるほどだった。

 名栗ダムも、従前は「N湖」と記して来たが、もはや大きな問題はない。ちなみに、一時、名栗ダムを訪れると、必ず「声」が聞こえていた。

 だが、「穴(窓)」は何時も「開いている」わけではないらしい。ある程度の期間が過ぎると、閉じてしまい、あの世の住人との接点が生じ難くなってしまう。

 

 いつも訪れて来た神社は、猫のトラによって導かれたことが縁となる、頻繁に参拝することになった。ここでは煙玉現象だけでなく「人影」が日常的に画像に残った。

 以来、概ね六年を越える間、常時何かしらの異変が起きた。

 それが今や消失しようとしている。

 

 ひとつ考えられる理由は「TPOが損なわれつつある」というものだ。

 従前は朝から夕方まで神殿に日光が当たっていたが、今では陽の光が差すのは午前中の僅かな時間だけだ。お昼頃になると、山の木々に隠れて日陰になってしまう。

 「あの世」現象の撮影には、「交差する光」が必要で、そのうちひとつは日光の光であることが望ましい。わざわざガラスに映る景色を撮影するのは、「ガラスに反射する光を重点的に捉える」ことで写りやすくなることだと思う。

 幽体は何か「未知の物質」で出来ているが、これに反射する光の波長が限られている。そして、その波長は人間の可視域の境界を跨ぐような「ぶれ」を生じさせているので、通常の環境では目視し難い。

 

 この神社は、配置が東向きで、季節によって少し変わるが午後二時から四時の間に日光の角度がちょうどよくなり、撮影に最も適した環境になる。

 その環境の要件である「日光」という条件が損なわれたので、普通の状態、すなわち「目視し難い」環境に戻ったのだ。

 

 私とこの神社を繋ぐのは、「トラの存在」であり、「あの世との接点」であったが、トラは去り接点も失われようとしている。それなら、そろそろ、この地を訪れるのを止める時期が来たのかもしれぬ。

 自分に近づく人影を見取り、それが「どういう理由で傍に来たのか」を推し量ることは、「死期を遅らせる」という意味で役に立って来た。

 これからは、気配を知ることなく普通に暮らすか、あるいはまた別の「窓(穴)」を探すことになるのかもしれぬ。

 

 十二月ニ十五日は、そんなことを考えながら神社に向かった。

 この日は通院日で、帰路に寄り道をするのはしんどいのだが、スマホに下げているお守りをどこかに落としたらしいので、とりあえず求めに行くことにしたのだ。

 いつもそこにあるものが無くなっていると、何となくしっくり来ぬからだ。

 

 土曜日だが、参拝客はさほどでもなかった。

 午後二時過ぎなのに、山の木々のせいで境内全体が薄暗い。

 境内に入った瞬間に、気のうねりのようなものを覚えたものだが、今はまったくなし。

 「逆に煩わしくなくていいかもしれん」

 今後は、時折、お不動さまや六地蔵に手を合わせるとで済むようになれば、それはそれに越したことは無い。

 最近は、家の中でも「いない筈の誰か」が騒がなくなったことでもある。

 沈黙(静寂)は金ほどの価値がある。

 

 画像ではほとんど何も分からない。歪みすらも少ない。

 しかしま、私の方が成長しているので、ほんのかすかな断片を捉えただけで、色んなことが分かる。

 参拝客の女性や私の後ろにはそれなりの人影がいるのだが、これは誰の後ろにもいる。

 これは「何となく居心地が良い」から寄っているだけなので、存在しないのと同じ。

 

 私が「二人いる」画像も、後ろの屋根と重なっているので極めて見難いが、一枚ガラスの方に二人分の胴体がある。普段はガラスの継ぎ目があることで、二重映像だと見なしてしまうわけだが、この日は継ぎ目の角度が同じらしく、ぶれがない。

 ちなみに、マスクっぽい影が見えるが、それは屋根(かなりデフォルメ)の色だ。もう一人はマスクをしておらず、かつ女だ。 

 私と同じ姿勢を取ろうとしているが、フラッシュ光を出すのは間に合わなかったらしい。

 だが、これくらいなら「気のせい」の範囲だから、ほとんど気にならない。

 見慣れた者でなければ違和感も覚えぬほどだ。

 

 しかし、逆に言えば、「そこにいる」こと自体は変わらないということだ。

 TPOが変化して、察知するのにそぐわぬ環境になったが、「窓(穴)」が消えたわけではないのかもしれん。

 「実証はし難いが、現実にそこにいる」という事態が最も不味い。

 画像や音を出して見せれば、信じる・信じないは別として、それなりの説明が出来る。

 出して見せられなくなったら、ただの想像や妄想の域になってしまう。

 

 帰宅後は、そのまま丸一日横になっていた。しばらくは何も出来ぬ日々が続く。