◎自分に似たひと、その他雑感
自分に似たひと
「自分に似たひと」が画像の隅に入るようになったのは、「お迎え」に会った以後のことだ。はっきりと気付いたのは半年くらい前のことだが、五年以上前の画像にも入っている。
あの世(幽界)の住人は曇りガラスの向こうにいるようなものだ。不鮮明で、はっきりとは分からぬ。だが「自分に似ている」となると、命に関わる事態かも知れんので、丹念に調べることになる。
そもそもほとんどの場合、「そこに人はいない」状況だった。
ガラスの継ぎ目なら、角度によって二重に見えるわけだが、「私もどき」はかなり離れたところにいる。
この「自分にそっくりなひと」は姿かたちを模倣し、動作を真似ていたりするので、物凄く気色悪い。だが、だからと言って別段その後何も起きない。
しかし、それも私だけかもしれんので、「自分に似せた人影」には十分に注意を払う必要がある。「ドッペルゲンガー」はまったく根拠の無い話ではないのだ。
この手のを見付けたら、「俺はちゃんとお前を見ているぞ。俺に近づくな」と宣告する必要がある。
牽制すれば、そうそう近寄っては来られない。
今は年を追う毎に次第に生と死の境目が薄れていくような実感がある。
あの世の一丁目は「霧の中に混然一体となって」おり、そこの住人は自意識が垂れ流しになっている状態だ。
人間の心中は悪意に満ちているから、死後にはそれがそのまま外見に反映される。
幽霊はどれもこれもが気色悪いわけだが、これは「ひとの心自体が醜い」ということだ。あの世では本心を包み隠すことが出来ない。
死線を跨ぐ
私のように、この世とあの世の「敷居が低い」状況は、逆に見ると、死んであの世に行った時に、この世の側に戻って来られることを意味すると思う。
いずれ死んだら、夜中の二時三時に色んな人の家の玄関のドアをコンコンと叩くつもりでいる(笑)。
文字だと「コンコン」だが、実際には家じゅうに響くでっかい音なので、最初は驚く。
だが、回数を経るに従って、次第に慣れる。
「何をするわけでもない」と分かると、大概のことは平気になる。
そのうち「助けて欲しいから訪れている」と分かったので、その都度お焼香をし慰めるようになったわけだが、大体はこれで済む。
N湖での異変
N湖については、十年前から時々、訪れていたのだが、ある日突然、異変が始まった。
湖岸にいた時に、人の話し声が聞こえ始めたのだ。
かやかやと小声だが割とはっきりした声が耳に届く。
周囲にはまったく人がいないので不審に思ったが、向こう岸に車が停まっているので、「声が反響したのだろう」と考えた。
だが、毎回これが聞こえる。
そこで冷静に考えたら、車のあるあたりは三百㍍は距離のある向こう岸だ。
ドームでもない限り、その距離で声が届くことはない。
声は湖の途中に架かる橋の方から聞こえる。
一番上流の湖岸を撮影していたが、何となく人が立っているような気がする。
女性で、ほとんど「気のせい」と見てよい程度の不鮮明な影だ。
だが、「障子の陰に人が立っている時」のあの感じに似ている。姿が見えずとも、念とも言えぬ気配がある。
この頃のは、逐一記事に記していたが、誰も頷けなかったと思う。あの感覚はその場にいなければ分からない。
ある時、謎が解けた。
湖の中に警察の舟艇が複数出ていた。
「訓練でもしているのか」と思ったが、いずれも上流の湖岸に向かっている。
そもそも、道から湖岸に降りられるのはそこしかないので、そこに行ったということだ。
では何をしていたのか。
N湖は「夜間侵入禁止」だが、これはバイクや車がサーキット替わりにせぬようにという意味に加えて、別の意味がある。
あくまで推測だが、夜中に来て、橋の上から身を投げるのを防止するためだ。
その場合、向こう岸に車を置き、橋まで歩く。
車が数日も放置されていれば、何が起きたかは明白だから、警察の舟艇が出て当人を探す。そして船着き場まで運び、車に乗せるわけだが、それが上流の湖岸だ。
声と気配の理由は十分にある。
こういうのが始まると、この地とは関係のない幽霊まで引き寄せられるから、湖の周辺には多数の人影が現れていた。
皆が一様に恨み言めいた嘆きをこぼす。
そこで、時々、N湖を訪れては、お焼香をし慰めることにした。
私は僧侶でも神職でもないので、語るのは「母の思い出」だ。母がどれだけ私のことを思い、尽くしてくれたかを淡々と話した。
そのことで自分の家族のことを思い出してくれれば、「死にたい」念で凝り固まった呪縛から解放されるかもしれぬ。そう考えたのだ。
この務めを終えるには二年以上かかった。
次第に声が聞こえなくなり、ざわざわする気配も消えた。
今では何も問題の無い景勝地だ。当分の間は大丈夫。
このことを私は「ご供養の結果」だと思っていたが、実際は分からない。
時々、この世とあの世を繋ぐ「穴」のようなものが出来ることがあるのだが、それと同じものがあの地にも出来た。それが一定期間が経過したので「閉じた」ということかもしれぬ。
ともあれ、橋の近くを通った人が「何となく死にたくなる」ことはなくなった。
もちろん、それも「当分の間は」ということだ。
湖岸での「声」は私一人に聞こえるのではなく、家人も一緒に聞いた。
こういうのは気付かぬ方が無難なので、家人には説明していない。
同じように、この世ならぬ者の「声」を多くの人が耳にしている筈だが、殆どの人がそれとは気付かない。近所の人や通りすがりの人の話し声がたまたま聞こえたと見なし、これをスルーする。
この場合、それと気付かぬ方が面倒ごとが少ない。こちらが向こう側を知覚し難いのと同様に、向こう側も生きて人間のことをそれと認識し難いので、極力接点を作らぬ方がよい。足を止めて考えると、先方の注意を引く。
ごく一部の者を除き、「そんなのは錯覚(気のせい)だ」でOK。
好奇心から近寄ったり、あるいは逆に恐怖心を持ち過ぎたりすると、そこで接点が生じる。
事故物件の部屋に移り住んだとて、殆どの人には何も起きない。
知らなければ尚更だ。
予備知識を持ち、恐怖心を持つと、そのことで相手を引き寄せる。