◎一つ目の「谷」を越える(560)
体調の底が25日から26日で、27日になり、ようやく外出できるようになった。
ほぼ十日近く苦しんだことになる。
死に間際になると、動物は体内の異物を総て掃き出そうとするが、人間も同じ。命が危うくなると、とにかくトイレに行きたくなる。軟便なので五分も我慢出来ないから、気配を感じたらすぐにトイレに駆け込むことになる。
その事態になり、「今の自分はかなりヤバいのだな」と分かる。もちろん、臓器のあちこちが痛んでおり、鎮痛剤を山ほど飲むことの影響もある。
その状態が28日くらいから少し楽になった。
そして、そこで初めて気づく。
「一月の末に最初の危機が来て、そこを生きて乗り越えられるかどうか」
これは昨夏くらいから感じていた「未来の姿」だったが、それが現実になっている。
ということは、次は二月の末だ。感染しないのが最も重要だが、他にも気を付けることが多々ある。
それはともかく、ひとまず「ひとつ越えた」ことで、神社に行き、お礼を伝えることにした。
この日は通院日だったので、既に午後三時。神社に着けば四時を過ぎる。
「写真を撮影しても写らないだろうな。こういうのにはTPOがある」
だが、こういう状況では、何もない穏やかな画像の方が有難い。
数日くらいは休ませてくれよ。
神殿の前に着くと、徐々に日が長くなっているらしく、まだ明るかった。
参拝客もチラホラいる。
七八枚ほど撮影し、すぐに家に帰った。外に長居すると、お腹の調子が悪くなった時に困ってしまう。
日頃、通院日は病院から帰ると、ほとんど横になっている。治療で疲れてしまうからだが、外出するとさらに疲れが倍増してしまう。夕食の支度をして、居間で横になったら、そのまま寝入ってしまった。
私は生来、最後の夢を正確に記憶したまま目覚める。
その時に観た最後の夢は、こんな内容だった。
◎夢の話 第945夜 大きな女
我に返ると、「俺」は自室のPCの前にいた。
それで何かをやろうとしていたらしい。
ところが、同時並行的に、もうひとつの自意識がある。
もう一人の「私」は、居間の床で寝袋に入って眠っていた。
そちらもかなりしっかりした意識で、どちらが本当の「俺」「私」なのか分からぬほどだ。
「幽体離脱なのかもしれんが、どっちが本体だろ?」
居間の「私」は目を瞑って考え事をしていたのだが、ここで眼を開いた。
すると、居間の真ん中にでかい女が立ち、「私」の方を見ていた。
天井に頭が付きそうなほどの大きさだった。全身黒づくめの服を着ている。
「随分でかいな」
もちろん、この「女」のことはよく知っている。
これまで幾度も画像の中で会って来たからだ。
最近では神社の参拝客の女性の耳に何事かを囁く姿が画像に残っている。
「コイツは相手が幽霊でも生きた人でも、魂を引っこ抜くように捕らえ、自分のものにするヤツだ」
居間の「私」は、心中で「完全に目を覚まさねば」と思うが、体が動かない。力が入らぬのだ。
ここで、二階の「俺」が今この瞬間に起きている事態に気付いた。
「なるほど。それならこの俺が幽体の方というわけだ。俺が自分の体に戻り、身体と知能担当の(私)と合体しないと、体が自由に動かない」
「俺」はすぐに腰を上げ、階段を小走りで駆け下りた。
居間にいる「私」はともかく、隣の部屋では息子が寝ている。
息子にちょっかいを出す気なら、すぐにも「大きな女」と戦い、女を滅ぼすことになる。
階段を下ると、居間のガラス戸が見えたが、灯りが消えていた。
「俺」はすぐさまその扉を開けた。
ここで覚醒。
「私」が瞼を開くと、居間の灯りは点いており、中央には誰も立っていなかった。
そこで、その夢のことを考えてみた。
あれは神社の境内にいる者だ。参拝客が背中に幽霊を背負って来るのだが、そういう「迷える魂」を捕らえ、自分のものにする。
この十日間、私はかなり具合が悪かったから、沢山の幽霊が寄り付いている。
それを拾ううちに、私の存在に気付いたか。
「で、俺の方について来た、というわけだ」
それなら、必ず痕跡が残る筈だから、画像を点検すれば、凡そのことが分かる。
午前三時から画像の処理を始めたが、予想通りだった。
この時期の夕方に撮影したものなので、きわめて不鮮明だが、「私がざらざら連れていた」ことと「大きな女が現れた」ということが分かった。
画像自体は、ウェブ画像で判別できるものは少ない。
私の方は5メガくらいの情報量の画像を見ているが、ウェブでは数十キロだから、みえかたがまるで違う。
モニターで見えるのは「服だけの男」と「私にしがみつく男の横顔」くらいか。
いずれにせよ、他者を説得するには不十分な画質だ。
もちろん、他の者に見せることが目的ではないのだから、自身がそれを見取り、現状の改善に役立てられればそれでよい。
一例を挙げると、一枚目の画像については、私はカメラを持っているので顔がその近くにあることになる。
ところが、頭の上に頭の禿げた老人の顔があり、左右にも人影がうっすら見えている。
はっきりしたかたちが見えずとも、「人のかたちをしているが、生きた人間ではない」ことが分かる。
他も各々に同じような理由がある(省略)。
さて、これまで「大きな女」は、私のことを見ていなかったが、今回は私が目に入ったようだ。
しかし、たぶん、私や私の身近な者に関わることはしないと思う。
傍で私の周りを見ており、私に寄り集まった幽霊を捕まえる方が手っ取り早いからだ。
この「女」は、居間の天井に届くような背丈だった。
以前見た時よりも大きくなっているが、それだけ沢山の幽霊を取り込んでいるということではないか。
ま、相手がどのような者かさえ分かってしまえば、対処策は立てられる。
それを見極めることが、神社で自分の姿を撮影することの理由だ。
「あの世ウォッチング」は好奇心を満たすために行っているものではなく、自身の死期を遅らせるために行うものだ。死期を先送り出来れば、その時間を利用し、「為すべきこと為す」ことに充てられる。
次は二月を無難に越えることが重要で、そこを上手くしのげば、夏が終わるくらいまでは生きていられると思う。