日刊早坂ノボル新聞

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◎夢の話第1K66夜、からの「本当は誰のこころ?」

私に取り憑く幽霊の姿

夢の話第1K66夜、からの「本当は誰のこころ?」

 かなり寒くなって来たが、関東ではまだ暖房を点けるほどではない。ただやはり肌寒いので、私は居間に居る時に半身を寝袋に入れている。ちなみに、学生の時に使っていた寝袋をつい数年前までこの用途で使い続けていたが、さすがにくたびれたので、今は別のを使っている。

 腰が温まると、眠くなるのが割合早いので、夕食後に居間の床で寝入ってしまった。あの震災の時に居間で寝起きしたのだが、それ以来、半ばはそれが習慣になった。

 この時、「枕元に癒し水を備える」ことが出来なかったのが影響したのか、久しぶりに悪夢を観た。

 

 夢の中の私は三十二歳くらい。これはいつものことだ。

 妻子は居るが、別に愛人がいる。

 愛人と情事を重ねるのだが、頭の中では「こういう自分」を持て余している。

 四十台か、人によっては五十台までは、色んな女性と付き合おうとするのは「本能」の影響する面がある。

 子孫を残すためには、色んな畑に種を蒔くのが得策だ。

 このため、動物の雄はひたすら雌に近づこうとする。

 「ある程度仕方がないことなんだよ」と頭の中で声がする。

 夢の中の「私」はここで気が付く。 

 「この声は果たして俺自身の心の声なのだろうか」

 そう思った瞬間、部屋の中で何かが落ち「ばたん」と音が響く。

 脂汗を感じつつ目を覚ます。

 

 目覚めてすぐに感じたことは、「もう俺はそういうトシでもないのに何故にこんな夢を観るのだろう?」ということだ。

 ま、夢の中では三十過ぎではある。何事においても「欲」が勝る。

 ここで、「ひとの心が自分一人のものとは限らぬ」ことを思い出した。

 幽霊は自我を存続させるため、すなわち「生き残る」ために、他の自我(幽霊)を取り込んだり、生きた人の心の中に入り込んだりする。

 幽霊がひとに「憑依する」のも、悪さを為すためではなく、心に入り込み、それを支配するためだ。そのことで自我を強化できる。

 幸いなことなのかどうかは分からぬが、今の私は心の中に入り込む「別の誰か」の存在を認識出来る。

 

 ただ思うだけではなく、画像にも残るから疑いの余地はない。

 八幡さまの境内では、私に寄り付く女性の姿が画像に残ったので、まずは対話を試みた。

 「ふさわしいお寺か神社に連れて行くから、そこで降りるか、あるいは二㍍以上離れてなら暫くの間傍にいても良い」

 その時の画像のように、私の肩に頭を乗せられると、私の方が不快だし、体にも悪影響が出る。

 その後、十日ぐらいして、「私の作務衣を女が身に着ける」と言う内容の夢を観たわけだが、それは女の側の願望だ。

 他の幽霊に捕まりそうなので、「傍に居る」という意思表示でもある。

 その後も、私はその女の存在を近くに感じる。

 もちろん、その女だけではなく、他にも十体以上が隊列を為して後ろに従っている。

 可視域が広く、幽霊の一端を垣間見られる人であれば、私の周りにざわざわと人影が蠢いているのが分かると思う。

 直接、手を出して触らぬ限りは、私への影響は少ない。

 

 当初は「自分だけが幽霊の影響を受けやすい」のかと思ったが、こういう状況は誰の身でも、同じように起きていることのようだ。

 ただ、普通はそのことに気付かない。

 私はたまたま「他の者」の心を意識するし、姿を目視するという違いだけだ。

 

 眼で見る「あの世(幽界)」は曇りガラスの向こう側の世界で、判別が容易ではない。だが、よくよく理詰めで考えると、説明の困難な事態が起こっている。

 画像は、神社のガラス戸に映った私を撮影したもの。

 私はガラス戸の合わせ目付近に立っているのだが、よく見ると、合わせ目の左右に二重映りしているのではなく、同じ一枚のガラス戸に二人分が映っている。

 私に似せているのだが、ディテイルが少し異なる。

 

 幽霊がひとの心に入り込もうとする時には、なるべくそれが容易になるように、相手に己を引き寄せる。近づく途中で姿かたちもその相手に似せようとする。

 まずは相手に合わせた上で、相手の心に入り込み易くして、いざ入ったら、今度はその心を支配しようとする。

 このため、局面局面で「あれはこうだよ」「こういうものだ」という声が聞こえたら、まずはそれが果たして自分自身の心から発しているものかどうかを確かめる必要がある。

 

追記1)「カウンターの陰に女が立っている」

 立っているのが女一人だったのは半年前までで、今では常時五六人(体)の気配がする。「いよいよ末期的」だと思うわけだが、まだそれらしき画像があるから正気を保っていられる。

 画像なりでそれが事実かどうかを示せぬ者は、独りで苦しみ、他人からは「気が変になった」と言われると思う。そして、そのうちその重圧で実際に気が変になって行く。

 私の場合は画像に人影が残るので、気は変にならぬが、現実に目の前に居る「人影」と折り合って暮らさねばならんので、やりくりが大変だ。

 少しでも気を抜くと、幽霊はすぐに同化しようとするから、常に警戒し、警告する必要がある。相手には合理的に考える頭が無いから、時には叱り、体罰めいた懲罰を与える必要もある。

 ただ、うまく折り合えると、危機的な状況の時に「死なずに済む」という利点が生じる。良い点はそれだけで、負担の方が大きいと思う。

 

 「死ぬための準備」「無為に死なぬための手立て」は、死にそうになってから始めたのでは、もう間に合わない。重病など無縁の健康な時から、少しずつ「生死の境」を観察することを始めぬと、理解することも受け入れることも出来ない。

 まずは耳を澄ませて聞くことが肝要だ。

 

追記2)「体調不良の原因」

 五月頃に「怖ろしい」と痛感したのは、医師六七人が口を揃えて明後日の(=当て外れの)診断をしたことだ。「心臓のカテーテルを受けろ」「胃カメラを」。

 はっきりしているのは肺症状で、血中酸素飽和度が86だからこれだけで入院だが、そのことを見ているのに、誰も何も言わない。

 ちなみに、看護師の一人は、ダンナが「96になった」ことで入院させるかどうか考えたらしい。だがその時は患者の86の方には何とも思わなかったらしい。

 

 体調不良の原因は「腎臓の治療の不備」で、日替わりの非常勤医師で繋ぐ状態だから継続的に患者を診られないという医療体制にある。(ま、それなら別の診療科に渡そうともするわけだ。)

 医師の言葉を鵜呑みにする患者なら、言いなりに心臓その他の治療を受け、さらに弱ったと思う。

 呼吸が出来ぬのに、心臓の施術を受けたら、それに耐えられるわけがない。

 そこで気付くのは、「それが狙い」だということだ。

 素人以下の「明後日の診断」も、各々の医師に「言わせているヤツ」がいるということ。

 このため、周囲の医療従事者の言葉には耳を貸さずに、腎臓治療の調整だけに専念した。医師の「あれしろ」は全部断った。

 結果はこの通り、まだ生きている。

 

 分岐点は私が「思う通りには従わぬ」と見て、悪縁(霊)が舌打ちをして去った、あの瞬間だと思う。何者かが隣家跡の空き地にあるドラム缶を棒で思いきり殴りつけて去った。そこからは徐々に好転した。

 はっきりした境目があるのも、こういうケースだからということ。

 いつも習練を志しているからそれと分かるが、気を付けて状況を見る習慣を持たぬと、悪縁の思う壺に嵌る。

 悪縁が望むのは人の死そのものではなく、その先に「支配する」ことだから、死んだからと言ってそれで終わりになるわけではない。この場合、死ぬのは始まりだ。

 私は自分の死後にもこの世に出て来られると思うが、そういう者を取り込めば、もっと悪縁にとっての自由度が高まる。

 これらは想像でも妄想でもなく現実だ。程なく悪縁の所在を「出して見せられる」と思う。「霧の中」や、「曇りガラスの向こう」ではなく、鮮明な姿を捉えられるのは目の前だ。