日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎幽霊は取り憑こうとする「相手に化ける」

◎幽霊は取り憑こうとする「相手に化ける」

 今日の午前二時頃のこと。

 居間で十一時頃に寝袋に入って映画を見ていたが、そのまま寝入ってしまっていた。

 夢も観ずに眠っていたのだが、声が聞こえる。自分自身の声だから、頭の中で考えていることが言葉になったのだ。

 「もう俺はダメだ」「再起できない」

 「この体では働くことも出来ない」「このままではどんどん負債が増えて行く」

 「こんなことなら早く死んだほうが良い」

 こういう否定的な考え方を次々に言葉に出す。

 だが、こういう展開はさすがに慣れた。頭の別のところで、自分自身に警告した。

 「眼をさませ。寄り憑かれているぞ」

 はっと事態に気付き、すぐに目覚めた。

 危ない危ない。「手を変え品を変え」とはよく言ったもんだ。

 どうやら昨年秋以来の「障り」が終わったわけではないようだ。

 すぐに、頭の近くに「癒し水」を置き、「これでも飲んで、自分の帰るべきところに帰れ」と声に出して命じた。

 

 思考のほとんどは言語で行われる。よって、頭の中では常に自分自身の声で話している。だが、その「自分の声」が、自分自身のものでないとしたら・・・。

 死霊が生きている人に取り憑くのは、相手の人格(魂)の中に入り込み、それと同化することで、自我を強固にするためだ。言葉を替えると「乗っ取る」という意味になる。同一化するので、それが為された後には、「対象とされた人」も、「取り憑いた者」もそのことに気付かなくなる。二つでいる間は気付くのだが、自我が一体化した後はもはや同じ「私」「俺自身」だ。

 このためのステップのひとつが「化ける」。

 相手に近づきながら、その相手の姿に自分を似せて行く。声を似せて行く。

 声が同じになると、その人間はそれが「自分の頭の中で響く声」だと誤認するようになる。そして、その声に言われるままに行動してしまう。

 (ここでPC脇の電話がチリと鳴った。「その通り」というサインだ。)

 

 「死霊が取り憑く相手そっくりに化ける」こと自体を知らなければ、対処など考えぬから、心療内科に行ってしまう。心の病気に罹っていると誤認してしまう。

 もちろん、実際に心の病に罹っているケースもあるだろうが、私は違う。

 何故なら、幾度もこの経験をしているし、その証拠も取っている。

 

 他の人にも見られる証拠なら、令和元年のSでの画像だろう。

 この年には、いわゆる心霊現象が山ほど起きたから、何百枚かの画像に異常を発見出来る。

 Sの前では、老人の幽霊を撮影したが、その近辺で「私に化けようとする幽霊」を撮影した。

 (ここで過去の画像を検索したが、なんとこの時の画像が悉く壊れていた。もちろん、そういうケースが過去にもあったから、PCとは別にディスクなどのメディアに移してある。)

 

 記録を見ると、令和元年の九月八日のSの玄関前で偶然撮影している。

 家人を撮影したが、たまたま私の姿がガラスに映っていた。

 「たまたま」と記したが、ガラスの傍で撮影する時には、無意識に自分自身も映る角度で撮影するようになっている。

 カメラを構える私の頭が「あるべき場所」にはなく、少し後ろに「私に似せてはいるが別人」の頭が見えている。

 私は弱視なので、常にサングラスをしているが、この男のサングラスは丸メガネだ。

 私はそんなメガネを持っていない。

 ま、私のことを知る者であれば、皆がこれが「私ではない」と指摘するだろうと思う。

 

 この時には、翌九日に撮影した老人の幽霊の印象が強すぎたので、私に化ける者の方は後回しになっていた。

 どうしても目立つ者ばかり見てしまう。

 「姿を似せる」「声を似せる」も、目的は同じで、心の中に入り込み、いつの間にか主役を取って替わろうとするところにある。

 八日には「私に化ける男」を撮影したが、九日には「助けを求める老人」が現れたので、連日、お寺と神社を回りご供養に務めた。

 十日にもこのSから神社に回ったが、この日は何も異変が起きなかった。

 そして、十二日には「白い服の女」が私の背後に立っていた。

 「白い服の女」は、どうやら私を救ってくれていたようだ。

 今はこの当時よりも、はるかに多くの経験を重ねたから、この当時には見えなかったものが今は見える。人のかたちをしていなくとも、光の歪み具合から、そこに「何者かがいる」と分かるようになっている。

 改めて、この当時の画像を見ると、ひとつ二つではない数の死霊が私の周りを囲んでいた。ターゲットは私で、呑気に「老人の幽霊を助ける」場合ではなかったようだ。

 私はこの老人を救済したつもりでいたが、この時に起きたのは、「白い服の女」が「私をすんでのところで救い上げた」という出来事だった。

 「女」は私が自分と関りの深い者であることを「鎖」で示し、「自分のものだから手を出すな」と宣言したのだろう。

 私にとっては、まさに「白衣の観音さま」だった。

 

 改めて眺めると、周囲から悪意のある視線が沢山向けられており、気色が悪い。

 なるほど、そのことに気付かれると、さらに警戒されるようになるので、総ての画像を壊したのだった。

 かつて、O先生が私を一瞥して即座に言ったことが、今は重くのしかかる。

 「あなたは神霊体だから、他の人よりも霊の影響を受けやすい。早くから修行の道に入る必要があった」

 こちらは何も障りを受けねばならぬことをしていないのに、一方的に降り注ぐ。

  たぶん、殆どの人よりも神仏や霊に敬意を示し、礼を尽くしている。不浄の者を救済する努力もしている。

 それなのに、「一方的に障りを与える」というのは、あまりにも理不尽な話だ。

 文字にも書いて置くが、これ以上、私にちょっかいを出すのであれば、もはや監督責任の問題だ。悪さを止めぬなら、稲荷とその眷属が滅びるように呪詛するぞ。

 私が死んだ後に、もし稲荷の本拠地が焼けたなら、それは私のもたらすことだと思え。次は私が祟りを与える番だ。

 

 さて、普通に暮らす人たちは、こんな話など「異常な話」「気の触れた者のたわ言」だと見なすと思う。でも、私の前では、回線の繋がっていない電話がさっきから「チリン」「チリン」と間をおいて一回ずつ鳴っている。

 こういうのを経験したことはあるのか?

 そばに人がいる時にはバレぬように黙りこくるが、周りから人が消えると早速始める。たまに、うっかり家族や知人がいる前で「声を上げて囁く」こともあるが、それで得することはないので、すぐに気配を消す。

 要は「相手はお前だけ」という意志表示だ。

 私が撮影している画像には、公開していないものがもちろんある。それは「公開出来ないから」で、要はそれを「見た者に差し障りが生じる」ことがあるということだ。

 ネットには愚か者がいて、幽霊の姿をると「恐怖のドウタラ写真」と名付けて拡散する者がいる。

 本当の障りの恐ろしさを知らぬからそんなことが出来るのだが、いざ始まれば、除霊浄霊など出来ずそのままその障りと運命を共にすることになる。ま、流布されているものの大半は作り物で偽物だ。

 

 こんなことをブログに記す理由は、もちろん、「受ける」ためではない。

 興味本位の者などどうでもよい。ここには来るな。

 私と同じ運命を持つ者が少なくとも五人いるので、その者に対し手を差し伸べているということ。これは私にメッセージを送らずとも、ここを見る視線で分かる。