日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「七福神銭に見る北奥への技術の伝播」

◎古貨幣迷宮事件簿 「七福神銭に見る北奥への技術の伝播」

 七福神銭は江戸期より「全国で愛好された信仰対象」だ。

 貨幣と異なり、絵銭は一度買われた後はほとんど流通せず、個人の家に仕舞われるか財布の中にあった。これは寛永銭が現行貨であった時期と並行して、絵銭の効力が減じる終戦後の一時期まで続いた。

 そして、奥州とりわけ北奥では、密鋳銭座で絵銭も作るケースが生じている。

 それなら、その密鋳銭座を調べるには、絵銭を調べることが必ず役に立つ。

 

 「銭の密鋳は法に触れる行為で記録を残さぬものだから調べようがない」

 こういうのは、単に怠惰なだけだと思う。傍証を積み重ねることで、何がしかのアプローチは出来る。

 ここから先の話は、Oさんとしか話したことが無い。花巻の古銭会の「三次会」での議論はここだ。

 どうして他では話せなかったのか。

 それは古銭界で『岩手に於ける鋳銭』をまともに読んだのは、盛岡のSさんの周辺数人の他には誰一人として「読んでいない」ことが分かったからだ。

 大正時代の資料から総ての検討資料を分析したが、結論は「こいつら(収集家)は、新渡戸仙岳の報告をまともに読んだことが無い」というものだ。

 盛岡でさえ、少し方向が変わり、昭和四十年代以降には「草稿を読み解く」方に関心を移している。「簗川銃砲場に就きて」その他の筆跡は殴り書きで、盛岡女学校や県の教育長だった時期に書かれている。これはすなわち、『岩手に─』の編纂に当たっては、廃棄されたリポートだ。要は「手控え」「メモ書き」ということ。

 明治末の草稿や大正年間の新聞記事、昭和九年稿に至る経過を追うと、新渡戸が「確からしい」と思って検証したものが系統的に浮かび上がる。

 だが、こんな話をしてもまるで意味がない。

 それは古銭界には、結局は『岩手に─』を読んだものがほとんどおらず、古泉界の大家が記した断片をもって「分かったようなことを言っている」からだ。その受け売りの評を記した大家が「読んではいない」なら、誤謬ばかりが膨れ上がる。

 古資料を調べるのには、図書館に行けば検索できるわけではない。手書きの書写本などの多くは、それを所蔵する個人を探し当て、その人の家を幾度か訪れて、ようやく筆写か複写の許諾を得られる。許して貰えぬことも多い。

 昭和九年稿の小笠原白雲居筆写本を見せて貰う時には、五百キロの道のりを三四度往復して、ようやく一時間だけ貸して貰えた。

 そんなことを口で言うのは、さすがに口で言うのは憚られる。そこでそのことには触れずに「地元の人であれば必ず読むべきだから」とコピーを渡した。

 それを皆で共有もせずに「失くした」だと(怒)。

 君たちは永久に「手の上の銭を見て誤謬ばかりを垂れ流すことしか出来ない」と思う。

 (ああ言いたいことを言ってスッキリした。)

 

 それより前に、古銭会で南部銭に関する議論を止め、口を閉ざすようになったのは、こういう理由だ。地元の『銭誌』からも手を引いたのは、そういう意味だ。

 丁寧に資料を作ったところで、理解・周知などされるわけが無いからだ。

 収集家の関心は専ら「分類」で、細かく分けることにこだわるのだが、それは「希少な品を俺だけが持っている」と自慢するという意味しかない。

 怒りのスイッチが入り、思わぬことを書いたが、ま、もはや収集家ではないので、関係が途絶えるなら逆にスッキリする。この後は、単なる批判者の立場になり、「それは誤り」だということを実証資料を添えて提示するわけだが、幸いなことに、そういう暇も健康も残ってはいない。

 

 すっかり脱線し、盛岡中学(高校)のK村先輩と全く同じ振る舞い方になった。

 ここでテーマを元に戻す。

 

 鋳銭技術の伝播と言う点から見ると、北奥ではふたつの系統がある。

 軽米大野では、石巻で鉄銭が作られるようになってからすぐに職人が出稼ぎに赴くようになった。砂鉄をたたら炉でづく鉄にする技術自体はこの地にあったから、それを石巻に売り渡す過程で繋がりが生じたわけだ。

 鉄一文銭は、石巻で鋳銭が企図されるごとに職人が招集されたらしい。

 先ほど石巻について記した文を見たが、「職人は三四百人」と記してあった。

 有り得ない。奥州のどこに行っても何万枚の背千一文銭が、それこそ「ウンザリするほど」出て来るのだが、それを「三四百人で」だと。きちんと調べて書け。

 さて、石巻に出稼ぎに出た職人が帰る時に、背千の母銭を持ち帰って、自らが銭の密鋳を企てた。軽米大野のたたら炉は個人の企図するサイズだから、量としては少量だ。

 たたら炉は一回ごとに炉を壊して、他の地に移りそこで再び炉を作る。このため、軽米大野地方だけで、炉の跡は八百とも二千に達するとも言われている。数字が曖昧だが、それだけ数が多く、調べてはいられないということ。もちろん、銭だけを作ったわけではなく、主力はづく鉄だ。農機具などの原料として、そのまま売れる。銭座への鉄素材としの販路もある。

 北奥の密鋳銭の記録を読むと、割合大掛かりな銭の密鋳も天保期には行われていたようだ。

 ここでピンと来る者も居るだろうが、天保期なら「横鑢の仕上げ技術がまだ誕生していない」と気付く。鉄銭については、輪側の仕上げそのものを行わぬわけなので、これは銅母銭とか銅密鋳銭に対してのみ言えることだが、仕上げの中心は「縦鑢」になる。

 石巻鋳銭座は慶応二年まで続くのだが、この年に閉座になった。その後、職にあぶれた職人が奥州各地に帰村した。

 慶応三年には、盛岡藩八戸藩では、公営・請負銭座を始め、密鋳銭座に至るまで職人を多く必要としたわけだが、それに応え得る人材(職人)の受け皿があったということだ。

 銭の密鋳は人が行うもので、幾ら手の上の金屑ばかり眺めていても、何故そうなったのかという問いに関する答えは出て来ない。あくまで人が企図した行為で、実際に携わった者がいることをイメージする必要がある。

 「誰が」という用件は「どのような」という技術にももちろん関係している。

 

 どうせ読んではいない筈だが、『山内に於ける鋳銭』その他を見ると、浄法寺に於いて鋳銭が検討されたのは、慶応よりも前の時期からとなっている。詳細は分からぬが、おそらく銅の密鋳写しだ。これは、輪側の処理技術の類似性から推測出来る。

 この後で慶応期には、鉄銭と当百銭を作っている。

 それでは、七福神銭を作ったのは、どの鋳銭時期になるのか。

 ここは既に当百銭を処分した後なので細チェックも出来ぬわけだが、当百銭の輪側処理(線条痕)は、絵銭のそれとは異なるから、「当百銭を作りつつ、絵銭も作った」ということは有り得ぬ話だ。

 当百銭の鋳造期間は数か月で、この間に三十万枚の製造枚数を慌てて作っている。

 戊辰戦争が進行し、各地で激戦を繰り広げている時期だ。

  ここからが推定だが、当百銭の鋳造が終わった後で、その枝など残った同材を再利用して作ったのではないかと思う。

 このことで、地金の配合と仕上げ用の器具が、当百銭のそれとは違っていることを説明できる。絵銭の総てがこの時に作られた訳ではないが、これを基準に技術を観察することで、製造時期を推定する要因のひとつとして考慮に加えることが出来る。

 

 このようなことを記すと、「手の上の銭」収集家は、短絡的に「では、八戸銭が縦鑢基本、浄法寺銭が斜め鑢なのだ」と文字テキストで解釈する。

 こういう人は、「白河以北には到底進めぬ」と思う。

 あちら側は「ひと山百文」の世界だ。江戸の理屈など通用しない。

 銭の処理は「誰もがお金として受け取って貰えるようなものを作る」ことが目的で、きれいな品や変わった品を作ろうとしたのではない。

 手掛けであれば、鑢などは、必要と思えば「縦にも横にも斜めにも走らす」。

 問題は、それに関わる職人と器具がどんなものだったかということだ。

 縦横斜めの中に、その中心になる基本属性が必ず現れている。

 

 長くなり、個別の銭について言及する余地が無くなった。

 現状では古貨幣は「二の次三の次」の扱いなので、ここまで。

 ま、七福神だけで、色んなことが分かると思う。

 分類だけを考える「ウマ」になるか、「鋳銭工程」を考える「シカ」になるかは、「あなた次第」で、いずれにせよ、古貨幣に興味を持つ道楽者は「馬」と「鹿」だ。

 

 気に障ったら恐縮だが、これは「非難」ではなく「愛情」であり「激励」だ。こういう逆説的レトリックについて、少しは知るべきだと思う。

 きちんと瞼を開き、耳を欹てること。

 高校生や大学生、二十台の若者なら、手の上の銭ではなく「ひとの振る舞い」を学ぶこと。古貨幣好きの道楽ジジイと付き合ったところで、何も新しい知見は生まれない。

 脚を使って、世間をぼおっと見て回る方がはるかに役に立つ。

 そして、必ず数学(集合論=レトリック)を学ぶこと。古泉家の多くは、言えぬことを言っており、自らの説が「同語反復」であることに気付かない。

 「この品はすばらしいから、素晴らしい」。これが許されるのはバカボンのパパだけ。

 

 注記)今日は機嫌が悪く、いつもに増して、配慮なしの書き殴りになった。

 気に障るなら、読まぬこと。私はもはや仲間ではない。