日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「南部中型七福神銭」および「七福神改造母銭」について

◎古貨幣迷宮事件簿 「南部中型七福神銭」および「七福神改造母銭」について

 さて、ようやくひと区切りできそうなところまで辿り着いた。

 七福神銭の観察を通じて行って来たのは、言外の目的、すなわち「南部銭の仕上げ技術」「浄法寺銭の仕上げ技術」「八戸銭の仕上げ技術」の外堀を埋めるところにある。

 貨幣と異なり、圧倒的に有利なのは、絵銭が相対的に市場流通しない傾向にあることだ。その点、まずはウブ銭から選り出すことが前提だ。それが出来ず、何らかの手立て(入札や業者)を通じて入手するなら、「どこから出たか」を可能な限り調べることだ。「出所を知ることが重要だ」と記すと、今度は「誰から買ったか」みたいな考え方をする者がいるが、そういう次元の意味ではない。

 ウブの差し銭を求める者は多いだろうが、差し銭から絵銭が出るケ-スは殆ど無い。

 絵銭はバラ銭か、あるいは雑然と紐に通した余り物から見つかる。

 これは戦中の混乱期か、戦後の一時期に、信仰対象としての意味が薄れると同時に、穴銭が現行貨ではなくなるというふたつの変化を背景としたものだ。

 結果的には、ひたすら撰銭をして、「どういう風に混じっていたか」を追究するしか、南部絵銭の出自に迫る方法はない。

 この場合、絵銭であれば、「どこで発見したか」が通貨とは違う意味を持つ。

 嫌と言うほど記すが、お金であれば売買に際してやり取りをするが、絵銭を日常的にやり取りすることなどは行わぬのだ。絵銭はそれを買い求めた神社寺社周辺と家にあり、点状に散らばっている。線ではない。

 

 さて、南部地方でのみ発見される七福神銭には「中型銭」がある。

 中型銭と言うと、すぐに銭径の大小だけに目が行くと思うが、これはもちろん、記号名だ。元々、銭径のやや大きい銭種から始まった認識だが、銭径ではなく意匠(図案)が大きい。

 銭径自体は、鋳写しすることで縮小するから、「中型銭の小型銭」のような珍妙な分類が出てしまう。天保銭の「離郭の不離郭」みたいな珍妙な名称だが、誠実に記すとそうなってしまう。

 だが、こんなのは七福神の中型とは、新規に型を起こし、神の姿を大きく配置したタイプ」「南部地方で作られたもの」という共通理解があれば、ただ「中型七福神」という記号名だけで済むことになる。

 こういうのが浸透しないのは、一重に存在数が少ないからで、中型の七福神は、それが橋野銭座製と伝承されて来たものであれ、浄法寺系の仕立てを施したものであれ、存在数に変わりはなく、いずれも希少である。

 何をもって、「南部(のどこか)」「浄法寺」「八戸」と区分するかについては、これまで記して来たとおり、「製作面の相違」が総てで、銭種が決め手になるケースは少ない。「写し」が存在する限り、これは当たり前のことだ。

 ま、銭径にのみ着目するのであれば、南部銭の七福神のそれを基準にすれば、「中型」になるのは一瞥で分かる。

 北奥の外の「江戸物」は視野に入っていない。(江戸物は江戸の人がやればよい話だ。)

 その上で、改めて意匠を眺め直すと、ここで初めて「さらに七福神の配置が違う」ことに気付くことになる。

 

 江戸物の七福神銭に配置の違う型がどれほどあるのかは調べたことがないのだが、南部地方では「写しではなく新規に木型を起こす」ケースが多々あったことが確認出来る。これは「神さまの配置が違う」ことで明らかだ。

 これらのことが同時に示すのは、絵銭が通貨(寛永銭)と異なり、小規模の鋳銭だったことにも関係している。

 

 言及する時間が無くなったので「改造母」の話については書けなくなった。

 毎日のようにどんどん品物を提供しているので、そもそも手持ちの品がかなり少なくなっている。

 繰返しになるが、この七福神シリーズの主眼は、「印象論に留まらぬ検証視角」を考えるところにある。

 南部銭に関する議論は、殆どが印象論に留まるため、これまでこういう話をした相手は、Nコインズの故Oさんしかいない。

 そして、ここに記した議論は、既に二十年以上前には終わっていた話になる。 

 珍銭探査に気を取られ、とにかく「少ない品を探す」「分類する」という視点では、盛岡や八戸の密鋳銭というフィールドには到底太刀打ちできない。あっという間に八百種なり千種なりに達してしまう。多様なものを観察しようというのに、改めて多様さを見て、何の新しい視角が生まれるのか?

 白河以北の貨幣を考える視点はまったく逆で、「(仕組みや装置の)共通点は何か」という考え方にのみ導かれる。

 

 もちろん、収集すること自体は「単なる道楽」なのだから、各人の好ましいと思うやり方で眺めると良いとは思う。

 だが、私はもっともらしい誤謬を聞かされるのはウンザリだ。

 「大家」は「退化」なり。一部の者だけが分かる知見など何の役にも立たない。

 「誰が見ても同じように見える」要素を探すのが、科学的なアプローチだ。

 

注記)一発殴り書きで、個人的意見や雑感を記しているから、記憶違いや誤記は当然ある。ブログはあくまで日記として記すもので、研究報告ではない。

 

追記)盆回し出品の再開について 

 体調不良にて間が空いたが、再開中。抽選会は時期をずらすことになりそうだ。