日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「Z15 梅松天神」の展開

◎古貨幣迷宮事件簿 「Z15 梅松天神」の解説 仙台と南部の間

 仙台領から南部領に向け、貨幣(背千類)や絵銭が伝播・普及してゆく過程を調べている人は、事実上、皆無だ。K村さんが亡くなり、私が収集から引いたら、たぶんそのテーマは終わる。

 収集家は自地域の貨幣や絵銭に興味を持つことが多いのだが、それが他地域にどのように跨るかにはほとんど興味がない。

 そもそも、貨幣(通貨)の収集家と絵銭のそれは、「別のジャンル」だと見なす人が殆どだ。だが、南部銭を収集するのに、貨幣と絵銭との照合を怠るなど、正直、「ウマシカ丸出し」だと思う。

 何せ、大迫や栗林など公許(公営・請負)の銭座でも、寛永銭と共に絵銭を作成しているし、八戸領であるならそれがさらに深化している。

 絵銭は貨幣に比べ地域間流動がはるかに少ないので、存在の分布状況を調べるだけで、どこで作られた品かを推定出来ることがある。製作を照合すればそれが一層確からしいものになる。

 と書いたところで、この品々に対する解説を書く気が失せる。

 説明しても、考えたことがある人がいないのでは、仕方がない。

 

 南部領では江戸後期には、軽米大野鉄山などで鉄の生産が盛んになった。砂鉄と木材が豊富に存在していたからで、仙台藩石巻で鋳銭事業を開始してからは、この地方の多数の鋳鉄職人が出稼ぎに行った。

 そして、その出稼ぎ職人が八戸領に戻る時に、背千類の母銭や仙台絵銭を持ち帰った。このため、八戸の密造貨幣は背千類が採用されているし、仙台絵銭を仙台式の方法で作成した品が残っている。そこを起点として、八戸流の変化が始まって行くわけだ。

 

 梅松天神という絵銭自体はかなり古くからあり、ここに掲示した「北野天神」は江戸期の絵銭譜にも掲載されている。江戸時代から北奥以外の地で多く作られていたことは疑いない。

 これが仙台領で作られ、次にそれが八戸など南部領に伝播して行く。

 掲図の「完全母銭」は、仕様が完全に母銭のもので、すなわち「母銭を作る目的で作った母銭」だ。だが、サイズが全国に存在する梅松天神銭の中ではかなり小さい部類に属する。

 なぜ小さいのか。それは寛永一文銭の背千類の母銭を作るのに慣れていたので、それに極力「規格を合わせると、しくじりが少ない」という理由からだ。

 地金のつくりなどは白銅質で、かなり練りが良いのだが、銭径が小さい。

 これに規格の合う通用銭を探すと、八戸領の鉄銭にしか存在しない。

 現物は密鋳銭の中から拾ったものだが、直接の母銭とは言えずとも、同じ種類の母銭から作ったであろうことは疑いない。他領では銅銭も鉄銭も合う品が無いのだから、別途、新たな証拠が出ぬ限り母子とも「八戸領」と見なすのが当然だ。

 改造母の方は、台自体は仙台領の作だと思われるが、これを南部領で輪穿に加工し、鉄銭の母に転用した。

 鉄は七福神銭に比べると存在数が少ないのだが、天神さまが学問成就の神だからということだろう。文政から天保で餓死者を出すような飢饉を経験していたから、まずは富への渇望が先だ。

 中型の梅松でこのつくりの品は南部にしかなく、かつ、このつくりであれば、発見地の名を取った「見前絵銭」の仲間だろう。

 ぼおっと見ている人が殆どだと思うが、時代は少しずれるかもしれぬが、「南部中型」であれば、橋野の中型絵銭と意味は変わりない。こちらは恐らく銭座の産ではなく、絵銭座の品になると思う。その違いだけ。

 見前絵銭は大量に作られた工法によるものとは思われず、一銭種につきせいぜい数百枚程度を一枚一枚作ったものだろう。これは輪側の鑢痕が物語っている。

 

 ちなみに、八戸領には葛巻を中心とした鋳鉄工法と、軽米大野の工法で大別できるのだが、両者には割と分かりよい違いがある。いずれもたたら製鉄によるが、炉の設計が異なり、炉自体の大小により、湯温に差が生じ、表面をよく観察すると相違がある。

 こういうのは軽米の資料館でよく見て置くべきだ。

 ま、収集家は専ら型分類しか興味を持たぬから、この手の話をしたことは一度もない。興味を持たぬ人には無用の情報だ。

 私的には「たぶん仙台系の母銭」に「規格が合うような鉄銭」を密鋳銭の中から発見し、それが大野鉄山の産だと見えたところで、心底よりシビれた記憶がある。

 もちろん、目測であり正確なものではないが、「あたりが付いた」だけで十分楽しめる。

 

注記)いつも通り、推敲も校正もしないので不首尾はあると思う。現状では、椅子に座っていられるのが四十分なので致し方なし。気に障るなら読まないことだ。