日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭にまつわるあれこれ」

◎古貨幣迷宮事件簿 「絵銭にまつわるあれこれ」

◇川村さんの思い出と江刺絵銭

 部屋の片づけをしていると、K村さんの遺品が出て来た。故人の話を記す時には、多く伏字(イニシャル)にするのだが、噂話の域ではなく、きちんと思い出を残すつもりなので、実名で記す。時々記す「K村さん」とは川村庄太郎さんのことである。

 古貨幣収集家、とりわけ穴銭収集家であれば、まずは川村氏の名を知っていると思う。寛永銭の「江刺銭」を掘り起こし、銭群(種)を確立された方である。

 私にとっては、高校の遠い先輩にあたるため、氏に会う際にはいつも背筋を伸ばしていた心持がする。学生時代の縦の関りは大人になっても影響する。

 さて川村氏との出会いは三十余年前のことになる。

 盛岡藩のことを調べているうちに、NコインズO氏に会い、「今度、会の方に遊びに来て下さい」と誘われたので、顔を出してみたのだ。

 その時が初対面だったが、川村氏は何せ偏屈で通った人だ。初対面なのに、挨拶らしい挨拶をせぬうちにあれこれと叱られた。そこは氏は戦前生まれの旧制中学出身者だった。

 だが、「偏屈さ」では私の方も負けぬ。その時がきっかけになり、「何時かこのジジイを思いきり凹ませてやろう」と思い、盛岡藩の鋳造貨幣について調べ始めた。

 古銭会を通じての交流はそれから二十年くらいの間だったろうか。

 川村氏は意固地で偏屈な人だったが、盛岡藩から仙台北部の貨幣については、トコトン調べていた。足で歩いて得た情報なので本で読んだ程度の知識ではなく、奥行きも説得力もある。

 当初は反感から食いついたのだが、裏話などを聞くうちに、いつしか気楽に話が出来るようになっていた。私は古貨幣そのものより資料をあたる方を重んじたので、それとの現存品との整合性について意見させて貰ったが、氏は大いに喜び、仲間にしてくれたのだ。

 残念なことには、私の方は盛岡藩に関心が集中していたので、江刺から一関の旧仙台領については、あまり教えて貰う機会が無かった。

 「江刺銭」も正確な線引きが出来ぬのに、「江刺絵銭」までは手が回らない。ちなみに、「江刺銭の絵銭」ではなく別のジャンルだ。

 このため、川村氏が何をもって「江刺絵銭」と分類していたのかがついぞ分からないままだ。

 

 冒頭の絵銭は、川村氏が急逝された後、花巻の会で遺品を分譲した時に競り落とした品の一部だ。当時は、何故これが仙台領のもので、江戸や大阪のものでないのか、あるいはどこが違うのかがまったく想像がつかなかった。

 貨幣であれば、何らかの公的記録が残るわけだが、絵銭はほとんどが民間の製造になるから、記録らしい記録がない。この状況は密造銭の事情とほとんど変わらない。

 一枚だけコメントをつけると、⑤の駒引銭は、「唐人駒」という絵銭種(本銭)に製作が酷似している。こちらの起源は奥州発の品ではない。

 川村氏のホルダーにもコメントが無く、仙台領の絵銭とは限らぬのだが、馬子の動作に躍動感があり、独特の意匠になっている。

 仙台や南部(盛岡・八戸)の絵銭になると、母銭であっても粗雑な作りだったりするのだが、仕上げが丁寧なので、他地域から導入したものかもしれぬ。唐人駒の手替わりか。

 

 ただ、絵銭は貨幣と異なり、地域間の流動はあまりない。

 お金でなく「お守り」「護符」の性質を持つので、他人とやり取りすることが少ないためだ。お伊勢参りなどで、神社や寺社の境内、門前町で入手して、自宅に持ち帰るわけだが、その後はほとんど動かない。

 雑銭に混じって出ることがあるのは、大正昭和などかなり時代が下った後に、古銭を整理した時などに混じり込むケースだろう。

 駒引きの絵銭など、どこにでもあるようだが、実際には意匠は様々違っている。

 同じように見えるのは、実は「よく見ていない」という意味だ。

 ま、興味が無い人が大半な状況は如何ともしがたいから、ここでは特に詳述もしない。

 

◇何故に南部絵銭?    

 後段の絵銭は、⑨が南部絵銭であることを説明するためのものだ。

 南部の絵銭譜には採録されていないようだが、この中型の梅松天神は南部領のものだ。

 何故に「南部領」と断定できるのか。

 最初に絵銭の図案を作る時に、金属板でなく判子状の木に刀で彫った。これは加工のしやすさによるもので、絵銭の多くはこの手法によっている。

 次にその判子を砂笵(もしくは粘土型)に押し当て、その型で片面だけの母銭元型を作る。表裏両面について作成し、これを貼り合わせると、一枚の絵銭の原母が出来、これが出発点となる。

 ところが、鋳砂の調達がままならぬ地方では、鋳造を繰り返すごとに表面の劣化が進むので、鋳造の段階数をなるべく減らしたい。

 そこで砂笵(もしくは粘土型)に両面を押したら、そのままその笵(型)の上下を合わせ、「片面貼り合わせ」のステップを飛ばしてしまう。

 これを実際に行ったという証拠は、単純な左右上下の「砂笵ズレ」だけでなく、面背「回転ズレ」の品が存在していることによる。

 この横着な手法は、幕末明治初期の南部地方でしか見たことが無い。

 南部地方は「絵銭の宝庫」と言われるのだが、多種多様の絵銭種を作り出した背景には、「手っ取り早い方法をとった」という考え方があったのだろう。

 

 木型なので、谷の部分が平坦ではないし、表面がガサガサだ。

 中型の七福神銭と発想が似ているが、製作は橋野製とは若干異なるようだ。砂の悪さから見ると、八戸周辺などではないかと思う。面背の風貌は見前絵銭に似ているが、輪側の処理方法が異なるようだ。

 存在数は今のところ「この品しか見たことが無い」ので不明。

 南部絵銭は未だに「これまで見たことが無く、過去の銭譜に掲載されていない品」が出て来る。

 

追記)さらに川村さんの思い出

 旧制盛岡中学のOBは「偏屈な人」「変わり者」が多い。

 川村氏との初対面では、「盛岡藩の当百銭は桐極印だけではないので、これを調べたい」と言うと、「ふうん。当百銭で桐極印でないものがあるのか。皆さんは知っているか」と罵倒気味に言われたのだった。

 ちなみに、盛岡藩の当百銭の極印には「桐極印」と「六出星極印」の二種がある。いずれも本座の桐極印を模したつもりのものだが、先人は二種に区分した。

 この辺のいきさつを詳細に調べると、川村さんは大いに喜んだ。たぶん、「自分と同類が現れた」と思ったのだろう。

 年を追うごとに、川村さんの物腰に似て行くような気がする。

 要は偏屈でぶっきらぼうだ。

 さて、何か色んな人が色んなことを言うのだが、盛岡藩の当百銭には「桐葉極印」と「六出星極印」の二種類しかない。

 最初にこれを手に取って見たものがそう呼んだから、以後は地元ではずっとそれを踏襲している。

 ま、収集家は分類譜は読むが、資料調べなどほとんどしない。(先輩に倣いきちんと最後に嫌味を付ける。)

 

 川村氏の晩年は寂しいものだった。病気で倒れた時に周りに誰もおらず、救急車も呼べずにそのまま亡くなった。

 けして「良き人」ではなかったが、「面白い人」だった。毒か薬のどちらかと言えば「毒」の方だ。居ると煩いが、居ないとなると不自由する。川村さん亡き後は、実際、もの凄く不自由している。北奥、とりわけ江刺や一関周辺の貨幣について詳細を知る人がどこにもいないからだ。

 この地域はちょうど南部の人と仙台の人の中間にあり、ここに興味を持つ人がいないから、軽視されがちだ。かいつまんで説明しても、誰一人関心を示さない。

 だが、仙台藩の北部である江刺地方は、南部に匹敵する絵銭の宝庫だ。  

 

 さて、思い出し、語ることがご供養なので、少し細かく記した。

 ちなみに上では柔らかく記したが、最初の頃は「このジジイ。いずれぶっコロしてやる」と思っていた。私は人間嫌いで、人に対し興味自体を持たぬから、これは最高の誉め言葉だ。

 

 注記)いつも通り一発殴り書きで推敲も校正もしない。K村氏同様、「偏屈の仲間」ということで。