日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌「悲喜交々」11/12 「病院の幽霊」

病棟日誌「悲喜交々」11/12 「病院の幽霊」

 ご近所への返礼用に熊本からミカンを取り寄せたのだが、やや小型の品種で数量が多かった。

 そこで、病院の隣近所の患者にも配ろうと十個くらいずつを小袋に入れ、各々のベッドのところに行ったが、そこで「ミカンがカリウムの塊」だということを思い出した。

 腎臓病患者はカリウムを余計に摂取すると、心臓が打撃を受ける。

 一個なら死なんだろうが、三個くらいからショック症状を起こす可能性がある。

 そこで、渡す時に「これを食っても死なんでね」と伝えた。

 実際、トマトを一個食べ、さらに西瓜をひと切れ食べただけで、救急車で運ばれた人がいる。

 隣の患者は若いから(と言ってもアラ40)大丈夫だろうが、五年もいる先輩の患者は徐々に弱って来ているから、手渡す時に少しヒヤッとした。

 もしこのオバさんたちがくたばったら、私が「あの世に送った」ことになる。名実ともに「死神」だ。

 まさかミカン数個で「生き死に」を考えるようになるとは。

 実際、腎臓病棟は患者の出入りが激しくて、五年前の患者で今も生き残っているのは三四人だけだ。四十人は居た筈なのに。だが、私の後から入った患者はもっと沢山死んでいる。

 腎不全はまさに「終着駅」で、様々な病気を経た後に多臓器不全となりここに至る。 

 早ければひと月ふた月、多くは半年から一年かからずに入院病棟に去る。で、そこから戻って来る者は居ない。

 腎透析は月に三十万掛かるので、一見、治療費が高額のようだが、「死ぬまでにかかる医療費」を計算すると、他の病気と変わりはないそうだ。要はここに至れば早期に死ぬということ。統計と違うが、「主たる死因」が心臓や肺になり、腎臓は「副」になるから名目上の死因別死亡にカウントされない。

 がんや心臓病などで死ななければ、いずれ肺か腎臓が機能しなくなる。主たる死因が腎臓病とされる人はむしろ少なく、他の病気を経由して行き着くところがこれになる。 

 六十過ぎてこの病棟に着たら、もはや片道切符だけ。帰路はない。棺桶に入るのが遅いか早いかの違いしかない。治療はあれども普通に暮らせていたのに、ある日突然、歩くのがままならなくなり、その数日か数週間後には霊柩車で病院を去る。

 

 この辺、世間一般の見える景色と患者が見える景色は、まるで違うものになる。もはや死が目前だから当たり前だ。もちろん、こんなのは理解共感できぬ方がよい。

 お年寄りの場合、血管が堅くなっていたりするので、週に三度二か所ずつに血管注射を繰り返すと、見るからに腕がボロボロになる。サポーターでもしないと、ひと目には出せない醜さだ。

 ま、私だって穿刺箇所はこぶになって盛り上がっているから、絆創膏を貼り付けたままにしている。

 一日おきにベッドに前後含め七時間くらい横になっているのだが、どんなことにも人は慣れる。現状を受け入れてしまえば、嘆くこともない。

 ビデオに飽きたらすぐに寝られるようにするために、家ではあまり眠らない。

 

 暇なので今は「ようつべ」を観ることが多いが、今日は「シング・シング・シング」の演奏を20楽団くらい聴いた。

 やはり、ベニー・グッドマン楽団が一番良くて、その次が何と京都橘高校だ。何故かと思ったら、「基本に忠実」だからで、橘がグッドマンに敬意を払っているからのようだった。アマもプロも自分なりのアレンジを加える楽団が多いが、いまひとつピンと来ない。橘も一時、アレンジを加えていたが、その頃のは音がぼやけている。今のはスタンダードに戻っているから、なかなか音がよい。

 

 昼頃、オヤジ看護師がでっかい声で、「誰もいない病室から声が聞こえた」と騒いでいた。重篤患者用の個室治療室があるのだが、そこから「すいません」という声が聞こえたそうだ。

 その部屋はガラス張りで中が見えるから、誰もいないのはすぐに分かる。

 看護師は「でもしっかり聞こえた」と言う。

 若い看護師が「怖い。仕事に来られなくなる」と言っていたが、なあにコロナ以後、窓を開けていることが多いから、そのためだと思う。

 窓の外から声が入るわけだ。

 そもそも、営業中の病院では幽霊など出ない。24時間誰かが働いているし、呼び出しボタンが鳴りっぱなしだから、静かな環境にもならない。

  患者にとって病院は「長く居たくない場所」だ。入院患者は「とにかく家に帰りたい」と望む。死後にその場に留まろうとする気にはならないのだ。 

 死期の差し迫った患者には「お迎え」の類が来るかもしれんが、この場合、そいつが見えるのは当事者の患者だけだ。

 それに、普通の幽霊なら挨拶などせず、すぐに用件を言う。「こんにちは」「おはよう」「すいませんが・・・」などはなし。

 直接、「助けて」とか「連れてって」みたいな望みを言うか、あるいは取り留めのない愚痴をくどくどと話す。幽霊は既に「心だけの存在」になっているから、思考能力が無く、相手関係は視野に入らない。

 要は「気のせい」ということ。場所が病院なら尚更だ。墓地と病院はむしろ幽霊が出にくいところだ。

 騒動を聞き「あのオヤジ看護師は忙しくてストレスが溜まっているのだろうな」と思ったが、もちろん、そんなことは口では言わない。

 「変わった出来事」や「ちょっとした怪談」は「娯楽のひとつ」でもあるし、ひとしきり話のネタにすればよいと思う。

 ちなみに、「スポット」としてよく「廃病院」が挙げられるが、訪れたことが無いので分からない。もしあるとすれば、その病院での生き死に関係したものではなく、別の理由によると思う。

 

 「かもしれぬ」程度の出来事は概ね錯覚や妄想だ。

 私は時々見たり聞いたりするが、自分自身についても妄想や幻覚が半分だと思う。

 だが、残りの本物を見逃すと、命に係わることが分かっている。そこで予防のために、「もしこれが働きかけだったら」を念頭に置いて対処することになる。

 このオヤジ看護師のようなケースなら、「どうみても動かしがたい異変」に至らぬ限り、塩でも撒いとけばよい。心配するな。何も起きぬから。

 そもそも塩など気休めに過ぎぬからちょうど良い。

 旅先のホテルや旅館で、周囲に誰もいない状況なのに「助けて」と呼び掛けられることはあるが、だからと言って何かが出来るわけでもないし、放置しても何も起きない。

 共感や同調をしない限り接点は生じない。その共感のひとつが「恐怖心」で、過度に恐怖心を覚えると、そのことで相手(の幽霊)を一層引き付ける。怖がらず、興味も持たぬ人のところには幽霊はあまり出ない。あちら側には目も耳も無いから、ひとの心の動きしか認識出来ないのだ。幽霊はひとの感情を手掛かりに寄って来る。怖がったり、興味を持ちつい見てしまったりする者には、喜んで寄り憑く。

 

 本物は複数の人が注視する前で、絶対に起こり得ぬことが起きる。

 仕掛けや装置など絶対にない環境で、他力が加わらねば起こり得ぬ物理的異変が起きる。だが、そんなのは万に一つもない。

 

 幽霊が関心を持つのは専ら心だけだ。

 心は目では見えぬから、目に見える出来事を追いかけても、幽霊のことは何ひとつ分からない。「見えるから存在している」「見えぬからいない」という発想・判断は通用しない。実際のところ、姿が見える時には対策が立てやすく、見えぬ時には事態がこじれることが多い。

 

 さて、以上は取り留めのない日常のひとコマだ。変化はないが、「患者」の場合、変化の無いことが最も望ましい状態になる。重篤な患者にとってすれば、物事は常に悪い方に変わるからだ。