日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「桃猿駒 紅白揃」

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紅白の桃猿駒

◎古貨幣迷宮事件簿 「桃猿駒 紅白揃」

 新年あけましておめでとうございます。

 

 めでたい日にはめでたい品を、ということで、画像は紅白の絵銭になる。

 桃猿駒は、仙台領で生まれた絵銭の名品で、素朴な風貌でありながら独特の味を有している。

 この意匠(図案)がどうして生まれたか、どんな意味を持っているのかについては、検索すればすぐに調べられるので、ここでは省略する。

 

 仙台領の絵銭は、国境を越えて南部領に渡るのだが、1)製作が仙台銭とほとんど同じグループと、2)コンセプトを借りて新規に型を起こしたグループに分かれる。

 大野鉄山の鋳鉄職人は、多数が仙台領に出稼ぎに行き、その帰路に様々な土産を持ち帰った。寛永銭の背千類の母銭に加えて、絵銭も幾らか持参したようだ。

 左の白銅の桃猿駒は、仙台銭と左程変わらぬつくりだが、地元の先輩によると「二戸にまだ未知の銭座があり、そこで作られた」ものとのことだ。

 この銭座では、寛永銭も作られたようで、この品と同じ「純白の背盛母銭」が現に存在しているとのこと。

 二戸は盛岡領だから、その銭座は、仙台と盛岡の素材、技術を結集させた鋳銭を行っていたのかも知れぬ。いずれにせよ、二戸から鹿角にかけては、まだ知られていない密鋳銭座が幾つかあったようだ。

 残念だが、純白の背盛母銭については、一度もお目にかかることが出来なかった。

 「南部史談会誌」掲載の下点盛に関する記述の中に、「銀なのか鉄なのか分からぬ母銭」について記されているが、それに類する品だったかもしれぬ。

 掲示したタイプの白銅桃猿駒についても、二枚目には会えず仕舞いだった。

 

 さて、仙台直系とは別の流れに、北上から入って来た系統がある。こちらは、仙台銭を直接写したりはせずに、新たに彫り母を作り、コンセプトの同じ絵銭を作った。

 その時に、意匠が少し変わり、馬の尻尾の本数が増えている。

 このため、従前は「馬の尻尾の本数により、仙台銭と南部銭に分類出来る」と言われていた。(だが、実際には、前項の通り「直写し」の品もある。)

 この銭種は、主に浄法寺地方で作られており、ここで多様な銭種に分岐した。

 なお、浄法寺地方と言っても、山内座と関係があるのかどうかは分からない。ここは地元の見解を窺いたいものだ。

 面白いのは、製作手法が異なっていることで、浄法寺の桃猿駒にも白銅銭はあるが、ここに掲示した品とは製作がかなり異なる。

 今では合併により、浄法寺は二戸市に組み入れられたのだが、同じ二戸の中の銭座であったのに、まるで工程の違う銭が同居することになった。

 

 さて、赤色の銭の話が漏れたが、右の赤銭は、二十年前はもっと赤く、「いかにも南部製」の風貌をしていた。ところが、時間の経過と共に少しずつ茶色や黒味を帯びた箇所が増えて来た印象だ。

 出来立ての色が赤色で、徐々に古色を帯びると茶色に変化するという、十円玉と同じ変化を辿るのかもしれぬ。ひとまず、まだ赤っぽいので、紅白に見立てさせて貰った。

 以前は「これも南部銭」という見解だったが、今見ると仙台銭の可能性もあると思う。

 

 縁起の良い図案なので、コピーが多く作られ、ネットには安価なコピー品が出ていたりするが、本来の品は風格があり、当時の民衆の願いを偲ばせる。

 古い品とコピーは地金の相違が著しいので、見分けるのは簡単だが、コピーばかり見慣れていると、本物に気付かぬようになってしまう可能性がある。

 何事も「まずは本物を見るところから」ということだ。