◎「死」は二度訪れる
時々、情報を再整理して、各時点で「果たして(そこにはいない筈の)人影とは何なのか」を検証していくことにした。
最も身近で、目視で確認しやすいのは「御堂さま」だ。
この「女」の人影は、割と多くの人が確認出来るらしい。
もちろん、これ以前の伏線もある。
1)「黒いひと」
過去の画像を遡ると、写真の中で私に寄り添うように立っていたのは「黒いひと」だった。これは真っ黒な人型のシルエットで、服装から性別が分かる。時として、男性だったり女性だったりするが、女性のことの方が多い。
2)「眼」
風景の中に「ひとつ眼」が紛れ込んでいる。多くは左眼で、人影が出た時には、まったく別の箇所からこちらを見ている。おそらく、その画像を見た者が「人影を認識できるかどうか」を確かめている。
そのことをはっきりしたかたちで認識したのは、御堂観音を訪れた時だったから、今に繋がる境目はこの時だろうと思う。この時期には、全国各所で「眼」が画像に残った。
こういう経緯があり、「白衣の女性」のシルエットを「御堂さま」と呼ぶことにしたのだった。
さて、目視確認しやすいのは、この3つの画像だ。(見難いものも多々ある。)
イ)平成三十一年(昨年)三月二十二日撮影の画像
神殿前で撮影すると、ガラスの左側に私が写っていたのだが、上から「女」が覆いかぶさっている。天気の悪い日で不鮮明だが、それが「女」であることが分かる。
襟が少し開いているから、着物を着ており、かつ「左前」だということが分かる。
よって、「女」は亡くなっており、かつ死後に起き上がった者だということが分かる。
まるでホラー映画なみの構図で、見ようによっては恐ろしい絵面だ。
私には顔の表情も見えるのだが、生気の無い冷たい表情をしているから、怖気を覚える。
しかし、まったく何ともなく、恐ろしい出来事が待っていたわけでもない。
恐ろしく見えるのは、「死人(霊)だから」で、ライオンがライオンの恐ろしい姿をしているのと同じ。本性が恐ろしいわけではない。
世間一般の「幽霊」に関する見解は、大半が単なる想像や妄想、または憶測で、事実に即してはいない。
いつも書くが、「恐ろしさ」ばかり強調するのは、その人が「実際には何も見ていないし、見えていないから」で、自身を「特別な能力」で飾りたいだけ。
ロ)令和元年(昨年)四月八日撮影の画像
これは前回説明したから、解説は不要だと思う。
問題は、同じ服装、髪型をしたこの「女」が前回と同一の者かどうかということだ。
着物の合わせ目が言えないのではっきりしないが、着物の左側を先に入れて重ねているように見える。要するに「左前」で、納棺時の着付け方になる。
極めて近似していると言えるが、顔が少し違うようだ。
前回は少し頬がふっくらとしているのだが、この回のはすっきりしている。
ほとんどの人は表情まで見えないだろうが、同じ画像を幾度も見ていると、顔つきも見えるようになる。
ハ)令和元年(昨年)九月十一日撮影の画像
私の少し後ろに白い立て看板があり、逆に姿を映しているガラスの向こうにはポスターが貼ってあるから、シルエットが入り組んでおり確認し難い。
だが、私の体の横から出ている白い袖とその先の右手は、鮮明に映っている。
ここには、見間違いを起こさせるような物は全くないし、手指の先までが見えている。
前二回と同じ構図で、私の背中に貼り付くように立っている。
昨年一年は極めて体調が悪く、時々、酷い不整脈が起きていた。
どの回にも、直前に心不全を発症していたし、画像に「異様なもの」が写っていた。
三月付近では、「首の無い女」で、たぶん、今の私の魂の「一部」が、かつて人間だった時に処刑した相手ではないかと思う。
ちなみに、そういうのは「前世」ではない。「生まれ替り」は、「同じ魂が幾度も人間になる」と解釈されることが多いが、かつての記憶や記憶は分断され、再構成されているから、まったく別の存在だ。単に記憶(の一部)を持つだけということだが、そのことは今の人生の考え方や感情の持ちように影響を与える。
最後の画像を撮影した直前には、同じガラス映像を撮影した時に、老人の顔が出ていた。下半身が無いから、その場にいた者を見誤ったわけではない。
「死期」が間近に迫ると、幽界との接点が生じるらしく、幽霊を頻繁に目視するようになる。
要するに「体調が悪くなること」「幽霊を度々見るようになること」は、「死期が迫っている」ことの表れだから、同じ変化の中の出来事だ。
そういう時に、この「女」=「御堂さま」が現れたが、それを認識し、「心身を整える」ことに集中すると、体調が著しく改善された。
このことで、私はこの「女」を味方もしくは仲間と解釈した。
冒頭の画像は、まさに「おどろおどろしい」構図だが、もし悪意があってこうしているのなら、私は「とっくの昔に死んでいる」と思う。
それに、普通の幽霊は「常に何事かを呟いている」のだが、「御堂さま」は一切言葉を発しない。ただ見守っており、時々、手を添え心を支えるだけだ。
身体の機能がもたず、徐々に崩壊して行くから、いずれ近い将来に私は「死ぬ」と思うが、死後の状況がある程度見えているから、死ぬこと自体はそれほど恐ろしいものではない。
恐ろしいのは、死後の自分自身がどのように変貌するかをまったく配慮せず、無防備に死んでしまうことだ。
この数年間の観察で、はっきり分かったことは次のような点だ。
ⅰ)死ねば誰でも「幽霊」になる。
「幽霊」は死後の「残存自我」で、自意識(感情)だけの存在だ。思考能力は無いから、自分の状況を理解することが出来ない。ただ生前の感情の持ちように従って、流れるだけ。
これがどれくらいの期間になるかは、そのひと次第になる。
その間、幽霊は生前の慣習に従い、自身が思い描いた世界の中で、茫然と時を過ごす。
ⅱ)「死」は二度訪れる。
最初の死は「肉体(五感)と思考能力」の死だが、二回目の死は「自我」そのものの死になる。
自我(自意識)はいずれ解体され、「記憶と感情」のばらばらな要素に分かれるが、この時、「かつて人間だった頃」のまとまり(=自意識)は完全に失われる。ただし、そのことで部品(要素)の再構成が可能になり、要素を組み合わせて、新しい自我と人格を形成する基盤が出来る。
ⅲ)霊魂の形態を分類整理すれば、「生・死」は「この世」と「あの世」という二領域ではなく、「人間(現)界」「幽界」「霊界」の三領域になる。霊魂は形態を変えながら、この三つの領域を常に循環している。
この三領域の流れを「如何にスムーズに進んでいくか」ということで、安寧(安らぎ)が生まれる。
もう気付いた人もいると思うが、要するにこれは「般若心経」に繋がっている。
終盤の「羯諦」以降の「真言」の本当の意味はこれだ。
昔の人は、どのように生き、どのように死ぬべきかを承知していたわけだ。
でも、何万回もお経を唱えようと、何百回も写経をしても、そのこと自体から得られるものはない。言葉はただの言葉に過ぎず、知識では解決しない。
「習う」のではなく、心で「悟る」ことが必要だ。
これは「生き死に」を有り体に見詰め、よりよく「流れに従う」ことを考え、実践するだけでよい。
物事にこだわってやり遂げるのは良いが、執着してはダメだ。似ていることだが、かなり違う。