◎昭和の「真鱈」の話
これは酒を飲んだ時によく使う持ちネタのひとつ。
小学校の三年生くらいの時の話だ。これはたぶん、田中内閣時代のことではないかと思うが時代背景の記憶は曖昧だ。とにかく高度経済成長期の真っただ中のこと。
年末二十八日で市場が仕事納めになるが、海産物が豊漁で、真鱈や鮭が沢山市場に出た。
年末年始で消費が増えるのを当て込んだのか、漁師が頑張って獲った。
だが、消費できる量にも限界があるから、早じまいの競りが終わろうとしても山のように箱が残った。
その時の真鱈は、一本4、5キロのでっかいヤツで、小売り末端でメスが5千円、オスが7、8千円くらいだった。鮭も新巻のでかいのが3~5千円で、生5キロ超がやはり7、8千円。
値段が記憶にあるのは、私も店頭で売ったからだ。重量はこれより多かったかもしれん。
父は市場で真鱈の箱が売れずに残っているのを見ると、それを全部引き取って来た。
市場は年明けまで開かれぬから、残り物は殆ど捨て値だ。たぶん、箱で1千円かそこら。
4トントラック一杯に真鱈を積んで帰ったが、店には入り切らぬので、前の道にまで積み上げ、シートを掛けておいた。寒い頃だからほぼ冷凍の状態。
それを年末まで数日間売ったのだが、外配(戸外売り)の真鱈の担当は私だった。
鮭や真鱈は基幹商品だから、アルバイトに任せる訳にはいかない。田舎の売り子のバイトがその売り上げを見れば、くすねたくなるのが当たり前なので、とにかく家の者がお金を管理した。
当方は小学生だったが、それでも大人相手に商売をしていた。
景気の良い時で、まさに飛ぶように売れた。最初はお金を小箱に入れていたが、それでは札束が溢れ出るので、すぐバケツに入れるようにした。しかしそれでも札が溢れ、日に幾度も中を空けに家に戻った。
本題はここから。
三十日か三十一日のことだ。
いつものように真鱈を売っていると、土方の風体をしたオヤジが来た。
「鱈けろ。オスの方だぞ」
そこで、真鱈の肛門に指を入れ、雄雌を見極めて、ささっと袋に入れた。
既に百本近く売っていたが、最初は肛門付近に包丁を入れ、仲が白子か鱈子かを確かめてから客に渡していた。幾度もそれをやっていると、指が白子・鱈子の感触を覚える。
ちなみに、白子の方が柔らかく、鱈子は少し弾力がある。
小三の子どもが、当たり前のように鱈を分別して、すぐに渡したので、オヤジは不審に思ったらしい。でっかい声で叫んだ。
「おめー。そんなので分かるのか。コイツがメスだったら金なんか払わねえからなっ」
年末で鍋に入れるから、客は鱈子よりも白子の方を好む。
私は子どもだったが、自信があったので、すぐに包丁で肛門を割いて見せた。
やはり白子だ。
するとオヤジは「お。本当だ。おめえは餓鬼なのにスゲーな」と言った。
普通、こういう時には心づけを出すのが仁義だ。ひと(しかも子ども)を怒鳴り、一方的に「タダにしろ」と言い付けて置きながら、自分の見込み違い。それなら、三千円から五千円を渡すのが筋だ。こういうのは仁義にもとる。
ま、そんなのは平気だ。この時学んだのは、「自分に確固たる正当性があれば、相手がどういう者でも怯まずに済む」ということ。
実際、このオヤジはごつい土方だったが、私はまったく平気だった。
木箱ひとつの真鱈を売れば、それで二万円以上だが、その箱を大晦日までに数百箱売った。父や叔父は店内で毎日ひたすら鮪を切っていた。
紅白が始まる頃に売り上げを計算して父に渡したが、父は上機嫌で、当初の約束通り、一割を私にくれた。何十万だったかは忘れたが、子ども心に「たぶん、クラス全体の子どもたちが貰うお年玉の総額よりも多いだろうな」と思った。
当時はまだ東北自動車道が無く、青森に帰る客も四号線を通った。年末なので「野辺地まで帰ります」と言う客もいた。
店の前の道路に溢れるほど車が停まり、客が群がっていた。
人がたかっているのを見ると、そこに人が集まるから、田舎道にとんでもない数の人と車が立ち止まった。後にも先にもあの時程客が来たことはない。これはその後、父が地域スーパーを作った後も含めて、という範囲での話だ。
ちなみに、「指で触った感触」はかなり重要で、骨董などの場合も応用できる。肌の感触や温かさ冷たさに微妙な違いがある。古貨幣の場合も、谷や輪側の手触りで「どう作ったか」という工程の違いが反映される。眼だけで判断しているようでは、まだ初手だと思う。