日刊早坂ノボル新聞

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◎夢の話 第1K60夜 旅行

夢の話 第1K60夜 旅行

 二十四日の午前二時に観た夢です。

 

 夢の舞台は郷里の実家で、かつて個人商店だった頃の店だ。

 新年の売り出しが終わったら、久々に皆で温泉に泊る予定になっていた。

 既に最終日で売り場にはあまり商品が残っていない。

 兄が居残りで、数人の従業員と片づけをしてから、夜に合流する予定だ。

 年末の黒豆の出荷は既に終わっていたから、その疲労が徐々に取れつつある。温泉にでも入れば、すっかり回復すると思う。

 

 母は親戚の車で先に出発している。「私の車に乗る」と言っていたが、私には所用があり、兄とは別に遅れて出発することになっていたから、前の車、たぶん、運転手は従姉のに乗せて貰ったようだ。

 年末の臨時雇いを含め、父は「会費五千円で連れて行く」と希望者を募ったので、そっちはバスで移動する。

 一人当たり数万円は面倒を見る訳で、何百万は持ち出しになるが、父は気前のよいところがあり、人あしらいの呼吸を知っていた。黒豆商売は億の桁なので、利益の中から数百万をねん出するのは難しくない。働く人が多少なりとも嬉しい思いをすれば、次の年にも仕事に精を出してくれる。

 私は家の方に居たが、少し片づけを手伝う気になり、外に出た。駐車場周辺のゴミを拾おうと思ったのだ。

 個人商店だから、駐車場には十数台しか停められぬが、国道沿いなのでフリーの客(通りすがり)が勝手にゴミを捨てて行くことがある。

 すると、駐車場の端に軽トラが止まっているのが見えた。

 蟹の販売車だが、もちろん、当家とは関わりのない業者だ。駅の前とか、路上で店を開く、あれだ。

 荷台を覗くと、「グラム二千円」みたいな経木が何枚か差してあった。

 屋台のオヤジがいたので、試しに「これはいくら位なの?」と聞くと、「大体一万五千円」との答え。

 別に高くも安くもないのだが、どういう経路で仕入れたものかが気になる。

 「小父さん。これはどこの漁港から?まさかかっぱらって来たヤツじゃないよね」

 「まさか。三陸産だよ」

 え。三陸のたらば蟹だって?怪しい話だ。

 「大丈夫だろうね」

 ここでトラブルが起きれば、フリーの客なんかは店に文句を言いに来る。関係者だと思い込むからだ。

 私の気配を見て、オヤジも何か悟ったらしい。

 「あんた。店の人?」

 「もう営業が終わるから、細かいことは言わんけど、きちんとしてね」

 盗品を売ったり、客を騙したりするなよな。

 ここで、私はその場を離れ、家の裏手の駐車場の方に行き、自分の車を前に回した。

 「俺もそろそろ出発しなくちゃな」

 で、我に返る。

 「で、どこに行けばいいんだろ」

 私は行き先を知らなかった。

 記憶を辿ると、たぶん、従姉が母らと一緒に行ったし、叔父たちは別路線組。雇った人たちはバスに乗った。

 私は当然、母の後を追うことになる。

 この時、パッと頭に浮かんだことがある。

 「母や従姉はもう亡くなっているよな」

 頭がぼんやりして、よくものを考えることが出来ない。

 私はその場に佇んで、自分がどうすべきかを思案した。

 ここで覚醒。

 

 夢では、自分の出発が「そろそろ」だと思っているから、今の状況に沿っている。

 

 十一月から十二月は、普段の営業や年末年始の売り出しの他に黒豆の商売があったから、本当にキツかった。

 毎日、学校から帰ると、黒豆の積み下ろしを十時過ぎまでやらされた。確か雁食(黒平大豆)で60キロ、青平で40キロの俵だったと思うが、これを一俵ずつトラックに運ぶ。

 当時はキャリアカートなど無く、総て人力だったから、百俵も担ぐと足腰が立たなくなる。

 仕事を終え、風呂に入ると、もはや十一時を過ぎており、それからが自分の勉強時間だった。

 椅子に座った瞬間に、三十秒で机に突っ伏して寝た。

 目が開くのは三時か四時。その後に一時間かよくて二時間くらい勉強したので、全然足りなかった。

 この時期の試験の成績はやっぱりあまり良くなかったが、いつっも「ハンデがきつ過ぎる」と思っていた。

 でも、同時に「百㍍なら二十㍍くらいのハンデをつけられても大したことはない」とも思っていた。

 生きていれば大なり小なりハンデがあるのが当たり前だ。

 いちいち不平を言うより、乗り越えた方が早い。

 時々、小さいことでぎゃあぎゃあ騒ぐ者を見ると(国葬とか)、「きっと人生で辛いことに耐えたことがないのだろうな」と「上から目線」で見られる。

 俵を担いだことも無ければ、牛の命を救うため、ケツに手を突っ込んだこともない。後者はもちろん私もないが、どんなものかは知っている。こんなのは揺さぶりを入れ、圧力を掛けるために意図的に言うことだ。

 「嫌な奴は真実を語る」。物を知らぬ「良い人」よりも、ためになる「嫌なヤツ」であれ。

 今もかなりハンデがあるが、やっぱり自分が作ったようなものなので、文句はない。浴びる程酒を飲んでいた時期がある。 

 何時母の後を追っても不思議ではない状況だが、出来る限り、出発を後らせようと思う。この状態でもやれることは必ずある。