◎夢の話 第966夜 濃霧
私は眠りから覚める時に、直前に観ていた夢をほぼ総て記憶したまま目覚める。そういう夢のうち、幾らか筋(ストーリー)のあるものを記録するようにしている。
これは三日の午前三時に観た夢だ。
久しぶりに郷里を訪れ、湧き水を汲むためにH山の麓に向かった。
ここには沢の水が流れ落ちている水場があり、そこには車で行ける。
麓の駐車場の傍を通ると、まだ山開きの前だから、ほとんど車が停まっていなかった。
ま、ここはいつものこと。
ポリタンク一杯の水を汲み、山道を降り始めたが、先程の駐車場に差し掛かったあたりで、不意に立ち寄る気になった。
車を駐車場に置き、登山道の入り口までえっちらおっちらと上った。
病身の体でも、数百メートルくらいなら登れる。
もちろん、頂きに向かうつもりなどさらさらなく、木々の臭いを少しだけ味わいたいだけだ。要するに森林浴。
この山に立ち入るのは、三十年ぶりか四十年ぶりだ。
登山道の目印になっている杉の大木を見付け、そこで石に座って休憩した。
「少し休憩したら、もう帰ろう」
膝が笑い気味だが、長いこと運動らしい運動をしていないせい。
昇る時よりも下る時の方に気を付ける必要がある。下りでは普段使わぬ筋肉を使うからだ。
お昼下がりなのだが、木々の間から白い煙が伸びて来た。
霧だな。
高所に出る霧は足が速いから、気を付ける必要がある。ほんの数分で、右も左も分からなくなることがあるのだ。
「今はこの山に俺独りだから、迷っても助けてくれる者が居ない」
携帯などそもそも通じないわけだし。
腰を上げ、下り始めたのだが、やはり、ほんの数分で霧が立ち込め、周囲を真白な壁に囲まれた。もくもくと動く白い壁だ。
「こりゃ参ったな。ま、まだ陽が高い筈だから、気温差が少し解消されれば、多少は晴れるかもしれん。少し待ってみるか」
腰の高さの岩を見付け、そこに腰掛ける。一本道だから、迷うことは無いと思うが、念のためだ。霧の中を動き回ったり、みだりに下に下ると、本当に道に迷うかもしれん。
暫く座っていると、山の上の方に何か動くものがある。そこだけ霧が蠢いているからそれと分かるのだ。
「おいおい。今ここに人はいない。まさか熊じゃあないだろうな」
少しく緊張する。
だが、山の上からこちらに降りて来たのは、熊ではなく人影だった。
五メートル先の霧の中から、数人の男女が不意に姿を現した。
「おお。上に上っている人がいたのか。別の場所に車を停めていたのだな」
現れたのは五人で、四人が男、一人が女だった。
皆、白い服を着ている。
この山で白い服なら、反射的に修験者を思い浮かべる。
「今も修行をしている者がいたのか」
昔は山頂に向かって左手に修験道場があったのだが、今も人がいるのか。
その人々が俺の前に立つ。
白い服は修験者の装束ではなく、小ざっぱりした白いシャツとズボンだった。
皆が同じ服装だ。
最初にその中心にいた短髪の男が俺に声を掛けて来た。
「皆、お帰りをお待ちしておりました。楓さま」
え。どういうこと?
楓って、普通は女の名前だよな。
ここで自分自身を見直すと、俺はさっきまでと違い、この人たちと同じ、白い上下を身に着けていた。
手指が細くて白い。
「ありゃ。俺って本当は女だったのか」
ふうん。俺はこの先、ずっとここで暮らすのだな。
もう二度とこの霧の外に出ることはないのだ。
ここで覚醒。