◎夢の話 第973夜 本当の自分
三十日の午前四時に観た夢です。
我に返ると、俺はPCモニターを前に椅子に深々と腰かけていた。
どうやら居眠りをしていたらしい。
「ここは・・・」
俺が居たのは、摺りガラスのフェンスで区切られたブースの中だった。
「研究所で仕事をしていたのか」
ここは小石川の坂の途中にある七階建てのビルの五階だ。俺は大学の講義が無い時には、研究員として勤務していたのだった。
でも、それはもはやウン十年前の若い時の話だ。
「でも、もう昔の話だ。今の俺はもう死に掛けのオヤジジイだもの」
あれから結婚して、子どもを作り、という、ごくありきたりな人生を送って来た。
「そもそもこの研究所は建物自体がとっくの昔に無くなっている筈だが」
それなら夢だよな。俺は今、夢を観ているのだ。
俺の場合、夢の中で「自分は夢の中にいる」と自覚することが時々ある。このため、意に添わぬ夢の場合は、途中でその夢を終わらせることも出来る。
半覚醒の状態だとも言えるが、実際、俺はその夜の最後に観た夢の内容を、ほぼ百㌫記憶したまま目覚める。
しかし、今の自分が置かれた状態には、妙なリアリティがあった。
ブースの中で煙草を吸うから、壁に煙草の臭いが染みついている。
試しにボールペンの先を、左手の薬指に刺してみたが、夢とは思えぬほどの痛みを感じた。
「おいおい。まさかこっちが現実だったりしてな」
二十台のこの俺が現実で、オヤジジイの俺は自分の将来のことをあれこれ想像していただけなのか。
すると、女房や子供たちの顔がゆっくりと意識から遠かって行く。
まさか、数十年の人生の総てが想像の産物なのか?
「こりゃ確かめる必要があるな」
そkどえ俺は椅子から立ち上がり、ブースの扉を開けた。幹部職員の趣味なのか、所内は米国の映画に出て来るようなブースで仕切られている。あの当時、あるいは今なら斬新なつくりだ。
しかし、所内には人が一人もいなかった。
時計を見ると、ちょうど昼時だから食事にでも出たのか。
「誰かがいれば、これが事実かどうかが分かったのに」
モリタカ・チサト似の美人事務員に、「やあだ。居眠りでもしてたんですかあ」と揶揄われる姿を想像したが、誰もいないのでは仕方が無い。
「じゃあ、外に出てみよう」
ビルの外に出ればはっきりする。
そこで、ブースから出て、研究所の入り口に向かった。
大扉を開き、廊下に出ると、エレベーターがあり、その向こうに隣の会社がある筈だ。
数歩前に進んでみる。
「ありゃ、先が無いぞ」
エレベーターのところまでは記憶にある通りなのだが、そこから先は灰色の霧に覆われていた。
高山で出るような、入道雲のようにもくもくと動く霧だ。
「廊下の先が無くなっている」
こりゃまたどうしてこんなことに?
答えはすぐに分かった。
「なるほど。俺はもう死んでいるということだな」
生きている間、人は自身の存在を五感によって確認する。触感とか痛み、視角や聴覚を通じて自己の存在を知る。
ところが、いざ死ぬと、その瞬間に五感は失われてしまう。
自意識を確認出来るのは、自身の持つ感情と記憶だけだ。
そこで何が起きるのか。
物的環境との接点を失った自我(魂)は、外界を自らの記憶と感情を基に創り出してしまう。
「要するに、このリアリティのある現実は、俺のイメージで出来ているというわけだ」
「若い時の自分」も「オヤジジイの自分」もいない。
それらに置いて残した記憶と印象が、今の世界を構成しているのだ。
「ってことは、この世界は時間の経過と共に消えて行く」ということだ。
既に俺は脳を失っているから、合理的にものを考えることが出来ない。五感を通じて、過去の記憶を呼び覚ますことも出来ない。
そうすると、感情によって記憶を支えぬ限り、少しずつ自我が崩壊してゆくということだ。
いずれこの廊下の霧が、このビル全体を侵食し、ついには俺をも飲み込んでしまう。
そして、「俺」という存在が完全に消え、「霧」を構成する幾粒かの水滴に分解してしまう。
「おいおい。それじゃあ、どうやってこの状態を切り抜ければいいんだろ」
きっと「俺」は死んでいるが、まだ俺の自我は存在している。これが分解すると、「俺」は跡形もなく消えて失くなってしまう。
どうにかせんと。
「ま、きっと手立てはあるし、時間もきっと残っている」
そこで、俺は廊下の窓から外を眺めることにした。
何かしらヒントがあるかもしれん。
ビルの真下には、なだらかな坂道がある。
陽気の良い日で、日光を浴びつつ、人や車が行き来していた。
窓を開けて、身を乗り出して下を見ると、ビルのすぐ前を母子が通り過ぎようとしていた。
母親は俺と同じくらい、子どもは女児で三四歳だ。
女児が母親に何かを話し掛けている。
耳を澄まして聞くと、この日の行先を訊ねているのだ。
「お母さん。今日はどこに行くの?」
「お父さんの会社に行くのよ」
母親の声が重い。
すぐに母親の心の内が伝わって来る。
夫は会社の経営者だ。あまり家には戻って来ない。
いつも遅いし、会社に泊まることも多い。
母親の心中では夫に対する疑念が渦巻いていた。
次の瞬間、俺はその母親の後ろに立っていた。
目前の母親が頭の中で考える。
「もしかしてあの人は浮気をしているのかもしれない。そんなのは許せない」
そこで俺は母親の耳元で囁いた。
「きっとそうだよ。打ち合わせに行くと言っていたけれど、きっと女に会いに行くんだわ」
母親がびくんと身を震わせた。
「もしそうなら絶対に許せないわ。この子のためにも」
「そうだよ。まずは何としてでも、この子を守らないと」と俺が囁く。
もう少し背中を押さねば。
「仕事だと言っていたけれど、きっと二人で会っているのよ」
母親はベッドで睦合う男女の姿を想像し、怒りを滾(たぎ)らせ始める。
ひとの胸には白い煙が渦巻いている。これは感情が作り出すあの「霧」の一部だ。
その母親の煙が赤く色を変え、大きく波打っていた。
俺はその波の合間に手を入れ、自身を煙の中に押し入れた。
「ああ良かった。これで私も生き延びられる」
まずは私の夫を懲らしめに行かないとね。
ここで覚醒。