◎怪談 第八夜 彷徨う人 (夢の話 第973夜 8月6日午前二時)
ふと思いつき、一人でキャンプに行くことにした。
と言っても、郷里の山の麓にある駐車場だから、里帰りするのと同じことだ。
俺はいざ思い立つと、やらずにはおれぬ性格だ。すぐに近所のキャンピングカー店で車を一台レンタルした。
夜はテントでなく車の中で寝るわけだが、わざわざそうするのは、頻繁に熊が出るためだ。昔なら熊は人を怖れ、人の活動圏には来なかったのだが、今の熊は人の臭いを嗅ぎつけると、大喜びで寄って来る。
数年前に、幾度か熊に人が襲われる事件が起きたが、その時の熊は駆除された一頭だけではなかったらしく、今も逃げ延びている。
人を襲った熊は、その味を憶えており、以後は当たり前のように人を襲うようになる。
人が獲物に見えるようになっているわけだ。
平日だったので、山の麓に登山客はあまりいなかった。ここは観光地化されておらず、何も観光施設が無いから、純粋に軽登山を楽しむ人しか来ない。
五輪が終わったばかりだし、感染症対策による活動の自粛も言われているから、一層、人が少ない。
だが、それこそが俺の望んだことだった。
誰もいないところで、静かな時間を過ごしたい。
麓の駐車場をキャンプ地にして、俺は竈を設営した。焚火に毛が生えたものだが、周りを囲えば山火事を引き起こす虞が軽減される。
持参した薪や炭が焦げる匂いを嗅いでいると、子どもの頃を思い出した。
母の生家は百年以上前に建てられた旧家で、囲炉裏も竈もあったから、その家の焦げ臭い煙の臭いを憶えている。
その焚火でベーコンや野菜を焼き、少し酒を飲んだ。
わずかな誤算があったのは、この地では秋が早く来てしまうことだ。
まだ八月の中旬だというのに、夜風が冷たい。旧盆が来ると、ここで夜を過ごすにはカーディガンが要る。
そのまま焚火を眺めていると、近くの草叢で「ガサガサ」という音がした。
その音で俺はもの凄く緊張した。戦慄を覚えたと言っても良い。
「もしや熊がベーコンの臭いに引き付けられたか」
焼く途中でもそれを想像していた瞬間があったから、「やっぱり」と思ってしまう。
ひとまず俺が車の扉の方を見ると、扉を開けたままにしてあった。
「これなら、走り出せば数秒で中に入れる」
もちろん、気休めだ。ライオンみたいな獣と違い、熊や虎は車と、その中にいる人を認識出来る。数年前に、サファリパークで飼育員が熊に殺された事件が起きたが、あれは熊が飼育員を獲物と認識し、車の中にいた飼育員に襲い掛かったためだ。
その車には鉄格子が嵌められていたが、そんなのは熊にとっては何でもない。苦も無く壊して中に入れる。
その辺、相手がライオンなら、車全体をひとつの大きな固い生き物と認識してくれるから、車に居る人間を襲ったりはしない。
「すぐに走り込めば、とりあえず中には入れる。そこでエンジンをかけ、この場から逃げよう」
そう考えた瞬間、草叢から黒い影が出て来た。
背筋にチリチリと電気が走る。
だが、焚火の灯りに照らし出されたのは、熊ではなく人だった。
ごく普通にこっちに向かって歩いて来る。
「ああよかった。人間だったか。しかも生きてるし・・・」
確か宮沢賢治は昼夜構わず、山に分け入ったんだったな。夜中の二時三時に獣しか通らぬような山道を歩き、岩洞湖周辺まで行ったと聞く。
俺の前に現れたのは男だった。
男はまっすぐ焚火に近寄って来た。
「こんばんは。少し火に当たらせて貰っていいかな?」
「ええ、いいですよ」と俺は答えた。
男は手を火にかざし、暖を取っている。
「今晩は冷えるね。とてもこの季節は思えないほどだ」
この地の人ではないのだな。
「お盆が来ると急に寒くなって、こういう山の中ではオーバーが必要になるくらいですね。何せ本州一番に気温の下がる土地柄なので」
俺は何十年も前にこの地を出ているから、もはや地元民ではないのだが、さすがに旅行客よりはこの地のことを知っている。
「お一人なんですか?」
「うん。私は山を歩くのが好きで、何日もかけて野宿しながら見て回っているんだよ」
男はやはり宮沢賢治と同じようなことをしているわけだ。
「今回、道に迷ったりしたから、幾日か余計に山の中で過ごした。食べ物も無くなったから、明日辺りは山を下りようかと思っている」
これを聞き、俺は合点が行った。
男はさっき俺が焼いたベーコンの臭いに引き付けられて、ここに来たのだ。
そこで俺はこの男に食べ物を分けてやることにした。
「ベーコンがありますけど、少し食べますか?一人では食べきれぬので、良ければどうぞ」
「え。良いの?助かるねえ」
やはりそうか。
俺は再びベーコンを切り、そいつが焼ける間に、食料ケースからパンを取り出した。
小さいコンロも出し、そっちではスープを温めることにした。
食べ物に火が通る間、その場を持たせるため、話をする。
「オリンピックも終わっちゃいましたね」
「ふうん。そう言えばそうだったね。私はそういうことには疎いから気にも留めなかった。もう幾日も山を歩いているしね」
ああ、こういう人が時々いるなあ。世間の風潮と関わりなく暮らしている。
「ま、例のアレで、五輪を止めろと騒ぐ連中もいるくらいでしたから」
この俺の話が伝わらなかったのか、男は少しきょとんとした表情だ。
(「例のアレ」で止まったのは、少し後に分かった。)
ま、世捨て人みたいな人はいる。そもそもここは修験道場の地で、麓を少し上った場所には、道場の名残を残す建物の跡が残っている筈だ。
もしかすると、今も道場があり、修行する人たちがいたりするかもしれん。
何せ、俺はもう数十年もここには来ていなかったからな。
「一人で山の中で幾日も暮らして、寂しくは無いのですか」
「いや元々、私は独りでいるのが好きなんですよ」
まるで、俺みたいな性格のよう。俺は集団行動とかが苦手で、他人に声を掛けられたくない方の性質だ。人の間にいると、余計に自分が孤立しているような気がする。
人間(じんかん)に馴染めぬのだ。
でもま、妻と娘一人くらいはいる。最低限の社会生活を送るためには、家族が必要だ。
家族がいないと何から何まで自分で行うことになる。一人なら宅急便を受け取るのにも手間がかかる。
「ご家族は?奥さんに文句を言われませんか?」
自分のことに照らし合わせ、ついそれを訊いてしまった。
身寄りのない者に対しては、あまり良い質問ではない。
「いるよ。女房と娘がいるけれど、私が留守の方が有難いらしい。あっちはあっちで好きなことをやっている。私には助かる。はは」
自分と同じような身上だと知ると、気軽に話せるようになる。
ここでベーコンが焼け、俺は皿にそれを載せ、男に手渡した。
男はそれをあっという間に食べた。
それを見て、俺はもう一度ベーコンを切り分け、プレートに乗せた。
じゅうっと音がする。
「お替りもすぐ焼けます。それと、私は明朝には山を下りますが、余り物ですが、幾らか食料があります。貰って貰えますか」
「いいの?」
「ええ」
やはり、男は山の中で過ごしていたから、食が乏しかったらしい。
表情が明るかった。
お替りを出しながら、俺は残りの食料を袋に詰めた。
男は食事を終えると、駐車場の隅にある水道の蛇口まで行き、そこで食器を洗った。
俺はゴミを抱えて帰るのが嫌だったから、使い捨ての食器を使わない。
戻って来ると、男は食器を返しながら俺に礼を言う。
「どうも有難う。久しぶりにまともな食事をした」
「もう山の生活が長くなったのですね。もうどれくらい家に帰っていないのですか」
すると、男が体をこわばらせた。
「え」
少しく首を捻る。
「あれ。私は何時から山で暮らしているんだっけな?」
じっと考えたが、思い出せぬよう。思い出すのを諦めたのか、にこりと笑った。
「もうだいぶ前だね。ここには新聞もテレビもないから。そもそも私は時計すら持って来ていない」
「そうですか。そりゃ大変ですね」
好きでそうしているのだから、「大変」ではないはずなのだが。
男はもう一度俺に礼を言うと、元来た草叢の方に歩き去ろうとする。
草むらの中に入ろうとする、その瞬間に、男が振り向く。
「そう言えば、東京五輪はもう終わったと言ってたね」
「ええ」
そして男は続けて俺に向かって訊ねた。
「それじゃあ、柔道は勝ったの?」
「ええ。男子は大体が金メダルでしたよ」
男が頷く。
「そっかあ。神永はヘーシンクに勝ったのか。そりゃ良かった」
思わず訊き返そうとしたが、既に男の姿は草叢の中に消えていた。
その後、俺は男についてあれこれと調べたが、何一つ分からず仕舞いだった。
はい、どんとはれ。
あっさりした夢で、怪談というより奇談の類だ。
男は半世紀以上も山の中を彷徨っていたのだった。
(本物の熊ががさがさと草叢を揺らす場面があったのだが、描写に時間が掛かるので省略した。)