日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第1K23夜 霧の中

◎夢の話 第1K23夜 霧の中

 二十日の午前三時に観た短い夢です。

 

 標高がたった一千五百㍍とはいえ、山の怖さは十分に知っている。だから、単独行ではなく友人らと計三人で登山を楽しむことにした。俺の他は男女カップルで、いずれも大学の同期だ。

 ハイキングと変わりないほどの山だが、俺は元が山の育ちで、野遊び中に迷子になった経験がある。

 何か事故が起きた時の備えもある程度していた。

 だが、登頂の途中で、仲間の女性が足をくじいた。

 女性はすぐに降りることになり、彼氏が付き添ったので、山頂には俺一人で行くことになった。

 

 十月の快晴の日で、汗を掻くほどの陽気だ。

 山頂には難なく着き、俺は高所からの眺望を楽しんだ。

 空が真っ青で・・・と思っていたが、西の方から灰色の雲が近づいていた。

 「ま、長居をするつもりはないから問題ないだろ」

 岩のひとつに腰を下ろし、このために持参したコーヒーをゆっくり飲んだ。

 

 数十分後、何気なく麓の方を見ると、霧が出始めていた。

 既に霧は中腹まで上がって来ている。

 「秋の霧は脚が速いからな。巻かれぬようにしなくては」

 俺は下山することにし、リュックを担いだ。

 ここで俺は俺の周囲に人が誰もいないことに気付いた。

 「さっきまで十人以上の登山客がいたのに」

 中年のグループがカヤカヤと話す声が煩いくらい響いていた。

 「何時の間に降りたんだろ。霧が出ることを知っていたようだな」

 ま、下りなら麓までは十五分だ。

 

 だが、五十㍍も降りぬうちに俺はほの暗い霧の中に入り込んでいた。

 まさに、あっという間だ。

 まだ昼過ぎだというのに、日没近くのような暗さになっている。

 これでは下山ルートがまるで見えない。

 水滴が体を濡らし、瞬く間に冷えて来た。

 「ま、ここは緯度が高めだから、この程度の標高でも気温はかなり下がる」

 岩の間を伝って降りようとするが、ひとつルートを間違えると、北側に回ってしまう。

 こちらは切り立った崖で、その下は谷川だった。

 「まだ日没まで四時間はあるから、この霧が晴れるかもしれん。どこかで休んで下山ルートが見えるまで待った方が良さそうだ」

 周囲に目を配ると、すぐ左手に岩室が口を開けていた。

 「体を冷やさぬように、あそこの中でしばらく待とう」

 俺はその岩室の中に体を入れた。

 岩と岩の隙間に出来た岩の洞穴は、間口が一㍍で奥行きが三㍍ほどの広さだった。

 「熊が入るのにちょうど良さそうだ」

 しかし、もちろん、熊はこんな高所で冬眠したりしない。この標高では、厳冬期には、さすがの熊も凍り付いてしまうからだ。

 俺は下着の替えを持っていたから、濡れた下着を乾いたものに取り換えた。

 保温シートは二重に巻けるくらいだし、使い捨てカイロも五つ持っていた。

 仮に動けなくなっても、二三日はしのげるほどの食料も携帯している。

 俺は元々、用心深い性格なのだった。

 

 岩室には霧粒が入り込んで来ず、風も吹き込まなかった。

 ま、風があるなら、霧を吹き飛ばしてくれるから、多少は吹いてくれた方が助かる。

 「状況が分からぬ時は動くな、と言うからな」

 このまま、ひと晩ふた晩を過ごすことになっても、平気のつもりだ。

 俺は岩に腰を下ろし、保温シートにくるまっているうちに、少しく眠ってしまった。

 どれほどの時間が経ったのか、俺は不意に響いた叫び声に起こされた。

 岩室の近くで、何者かが「誰かああ」と声を張り上げたのだ。

 「誰か助けてえええ」

 女性の声だった。その声を聞き、俺は「きっと俺と同じように霧に巻かれた人だ」と考えた。

 俺はすぐに岩の間から顔を出し、声のした方に叫んだ。

 「大丈夫ですかあ。こっちにいますよ」

 「どこどこ?」

 「こっちです。足元に気を付けてこっちに来てください」

 岩を踏む靴の音が聞こえ、女性が姿を現わす。

 姿を現わしたのは、中年の女性だった。

 「ここなら、霧が晴れるまで凌げますから」

 女性は四十台の半ばか五十歳くらいの年恰好だったが、すこぶる軽装で、というよりスカートを穿いていた。とても山に登る格好ではない。

 「どうしてまたこんなところに?」

 俺は保温シートを二枚持っていたから、一枚を女性に渡した。

 「それが全然、訳が分からないの。私は神社にお参りに来たのに、気が付いたら霧に巻かれていて」

 「神社?麓のG神社ですか?」

 「いえ。私はA神社にお参りに来たのです」

 俺は少なからず不審に思った。A神社なら、そもそも所在県が違う。

 「ここは神ノ原山ですよ」

 「えええ。そんな」

 女性が息を止める。

 約十呼吸ほど置いて、女性が口を開いた。

 「私は山道を上る途中でトイレに立ち寄ったのです。トイレから出ると、家族が私を呼ぶ声がしたので、『はあい』と返事をして、声のした方に行きました。そしたら、あっという間に霧に囲まれて・・・」

 「霧の中を彷徨っていた、というわけですか」

 「はい」

 嫌な話だ。この人くらいの年恰好の女性が神社の参道で行方不明になった事件を聞いたことがある。

 「変なことをお尋ねしますが、今年は何年ですか?」

 俺がそう訊くと、女性は少しく怪訝な顔をした。

 「平成十年です」

 これは按配が良くない展開だぞ。平成十年では、二十四年前ということだ。

 やはりあの失踪事件じゃないか。

 だが、今の様子では、そんなに長い間彷徨っていたことに本人は気付いていまい。

 

 「随分長いこと、この霧の中におられましたね。では、この霧が晴れたら、私と一緒に下山しましょう」

 「よかった。どこを向いても霧しか見えないから、ほとほと困っていたのです」

 「そうでしょう」

 もしこの人を連れて下山したら、この人の家族はさぞ喜ぶことだろう。二十年も行方不明になっていたのだからな。

 

 ここで、再び外で声が響く。

 「兵長。しっかりせんかあ!」

 「はい。少尉殿」

 七八人が下の方から上に上って来ている気配がした。

 「訓練だと思って気を抜いてはいかんぞ。兵長、皆に遅れるな!」

 「はい」

 声は間近に迫っている。

 向かいの女性にもはっきり聞こえたのか、俺に問うて来た。

 「あれは何?」

 「『兵長』は日本陸軍の階級です。どういうことかは分かりませんが」

 「戦争は五十年以上前に終わっているのに?」

 俺は答えを返すことが出来ず黙り込んだ。

 (おいおい。冗談じゃ無いぞ。陸軍の一個分隊がここで訓練などしているわけがない。既に日本軍が存在しないのだからな。)

 

 「幽霊かもしれませんね。女房はアジア系外国人ですが、女房の田舎では、時々、日本の歩兵が隊列を為して行軍するらしいです。行軍しながら軍歌を歌うので、女房は日本の軍歌を憶えてしまいました。日本語が分からぬのに、日本の軍歌を聞き覚えたのです」

 「軍人なら、ただ迷っただけの人ではないわね。いない筈の人たちだもの」

 ここで俺は内心で、「あんたも同じだよ」と呟いた。

 この女性だって、二十余年前に消息を絶った人だ。

 今は六十を超えている筈だが、この姿は当時と変わりない。

 「神隠しじゃあなくて、幽霊なのかもしれんな」

 すると、女性が「え。何?」と問い返す。

 「いいえ。何でもないです」

 

 気が付くと、外は真っ暗になっている。

 時計を見たが、既に午前二時を回っていた。

 「何時の間にこんなに時間が経ったのだろ」

 これでは、下山出来るのは朝になる。この時期、朝はやはり霧が出るから、恐らく昼近く。

 「ま、霧が晴れて下山出来たら、総てがはっきりする」

 この行方不明の女性のことも、さっきの軍人たちのこともだ。 

 

 だが俺はここで再びハッと気付いた。

 「この霧が晴れることなどあるのだろうか」

 俺はとっくの昔に「神隠し」に遭っているのかもしれん。

 「もしかして、俺もこのまま・・・」

 ここで覚醒。