日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎背後に連れて来ている  (一年前の振り返り)

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令和三年三月十五日撮影

◎背後に連れて来ている  (一年前の振り返り)

 画像は一年前の三月のものだ。

 不鮮明なので、見慣れぬ者にはほとんど分からぬかも知れぬ。

 もちろん、当事者は分かる。

 

 この日はN湖にお焼香をしに行ったのだが、いつもに増して気配が悪かった。

 そこで「引き上げてあげるからついて来るように」と伝え、その足で神社に参拝した。

 「あの世」に関連する異変をカメラで捉えられるのは、最初の一枚目であることが多い。これは、周囲に居る者が「まだ構えていない」「撮影されることに気付いていない」ことが多いためだと思われる。

 重ねて撮影すると、異変は徐々に消えて行く。

 

 遠目だったのであまり明瞭ではないのだが、私はカメラを構えており、左右の手が確認できる。腕は見えぬのだが、手の位置でそれがどこにあるのかも分かる。

 だが、私の腕とは別に、太くて大きな腕が二本私の前に回っている。

 周囲に人はいない。ではこの腕は一体誰の腕なのか?

 ま、私の「背後にいた者」であろうことは容易に想像がつく。これに類する画像は、この同じ場所で幾度か撮影して来た。

 

 はっきりとした理由は分からぬが、あの世の住人から見て、私は「見付けやすい者」であるようだ。実際、誰もいないところで、何者かの「声」を聴くことが頻繁にある。

 旅先の旅館やホテルで、壁の向こうから「助けて」という声が聞こえる話をこれまで行く度も記して来た。そしてそれは、隣に部屋が無い場合でも起きる。

 (おそらくは、私があの世に近い位置にいることと関係しているとは思う。幾度も書いて来たとおり、私は一度心停止を経験したことがある。)

 

 はっきりした理由は分からぬが、「近くにいる」ことは疑いない。一度や二度ならまだしも、この手のことは時々起きるので、深く考え込んでもいられない。

 重要なことは「理由」ではなく、「対処法」の方だ。

 自動車の構造を知らず、組み立て方が分からなくとも、乗りこなすことは出来る。

 安全に乗りこなすことが可能なら、自身で車を組み立てる必要はない。 

 

 その後、気付いたことは、こういった事態は何か特別な事情を持つ者だけに起きるのではなく、「誰の身にも日常的に起きている」ということだ。

 本人の心の状態によって、それと近しい心情を持つ者が近寄って来る。人によっては、そういう者と相互的影響を持ち、感情をさらに増幅させる者もいる。

 この時の私は、湖畔に留まっている者たちに「出してあげるからついて来い」と伝えたので、それに従ってついて来た。そう考えると分かりよい。

 神社やお寺は、人々の信仰を集めるところだから、気の流れが存在している。その流れの中に、あの世の者を離せば、たぶん、現状に留まることなく前進できる。そう考えたのだが、実際どうなったのかは、よく分からない。

 

 こういったことは、ただ単に私の想像や妄想なのかもしれぬが、あながちそればかりではないように感じる。

 この記録を残すために作業をしたのだが、その作業がひと区切りしたので手を休めると、いきなりPCのCDソケットが全部開いた。

 

付帯的状況について

 画像や映像に「あの世」現象が記録されることがあるが、その場合、「景色が著しく歪む」ことが同時に起きる。おそらく光と空気の関係に変動が生じるからだと思うが、数十秒の間隔で撮影した画像なのに、背景が著しく歪んで写ることが多々ある。